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教育とは何か。

 投稿者:●之助  投稿日:2017年 8月 6日(日)15時12分24秒
  通報 返信・引用 編集済
  三方限古典塾の塾生 納利一 77歳さんへのお返事です。

戦後の教育について考察
1941年12月8日、真珠湾攻撃と同日、マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで日本軍を迎え撃つ。
マッカーサー軍15万人に対し、日本軍はその3分の1にも満たない4万3000人。
マッカーサーは余裕で撃退できると自信を持っていた
しかし日本は、初日の爆撃で大きな成果を上げ、フィリピンの航空戦力を壊滅まで追い込む
その状況にマッカーサーは、「日本軍の戦闘機は、ドイツ人パイロットが操縦していた」と本部に報告するまで日本軍を低く評価していた
ところがその日本軍の怒涛の進軍は止まらず、マッカーサーは侵攻からわずか1ヶ月で首都マニラを明け渡すことになり、マニラ近くのバターン半島での防衛戦しか残された道はなかった。
小さい半島で大軍を抱えることになったマッカーサー。致命的なことに食料がなく、飢餓と疫病、そして連日の日本軍の猛攻に誰もが衰弱していった。「このままではマッカーサーが捕虜になりかねない」と見かねたワシントン側が、マッカーサーにフィリピン脱出を命じた。
悩んだ末の決断ではあったものの、司令官たる者が部下を捨て、なんと8万人以上もの捕虜を残して、マッカーサーは暗く狭い魚雷艇に乗って戦地を脱出していった…
マッカーサーの父はフィリピンの初代総督で、彼自身もフィリピンで家族と生活し、フィリピン陸軍元帥に就任。第2の故郷とも呼べるような土地で、日本軍に追い詰められ大量の捕虜を置いて逃走した経験は、マッカーサーの軍人人生において「大汚点」となった。しかもその汚点をつけたのは、彼にとって格下のはずだった「まさかの日本人」。
その胸をえぐるような悔しさを表した行動が、2年半後の1944年から見られる。
既に日本は大戦力を失い、サイパンも陥落。
アメリカの参謀本部の提案は、無防備な日本本土を攻撃してトドメをさすか、
日本軍が大軍を配置するフィリピンを素通りして台湾に侵攻するかだったが。
しかしマッカーサーは自分に大汚点をつけた日本人への恨みを晴らすために
自分の思い入れがある土地を奪還するためだけに、フィリピンへの侵攻を進めてしまう。

マッカーサーの復讐戦と恨み
その数、マッカーサー軍125万人に対し、日本軍40万人。
出だしのレイテ沖海戦で日本海軍が大敗し補給路を断たれてからは、フィリピンの日本軍は完全に孤立した戦いに。どの戦いでも日本軍は敗れた。しかし食料も、武器も、弾も、清潔な水もないのに、敵に決定的な勝利をなかなか渡さない日本軍。
どれだけしぶとく最後まで戦ったかは、フィリピンでの日本兵の死亡数が十分に物語っている…
40万人いた日本兵のうち、戦死したのは34万人。負傷者も合わせたら無傷だった者はいない。ほぼ全滅になるまで、飢えと疫病にまみれながら、日本軍は徹底抗戦した。
これは、マッカーサーが逃走した先のフィリピンの戦いとは真逆。あのときのアメリカ軍残兵はほとんどが降伏して捕虜となっていた。抗戦状態も長引き、日本は補給もないのに終戦まで10ヶ月を耐えた。
フィリピン制圧後もマッカーサーの日本への恨みは収まらず、大汚点を付けられた時の指揮官・本間中将と、復讐戦時の指揮官・山下大将の2人を、弁護なしのリンチ裁判のような形で処刑に追い込んでいる。
山下大将はフィリピンで絞首刑にされたが、軍服の着用も許されず、囚人服のままの処刑だった。遺体は刑場付近に埋められたらしいが、現在も所在は不明。本間中将もその後銃殺刑にされたが、処刑日時は1946年4月3日午前0時53分。ちょうど4年前にフィリピンで、本間中将がバターン半島に籠るマッカーサー軍に総攻撃の命令を下したのがこの日時だった。
マッカーサーの大人げない執拗な恨みが、滲み出てると言うしかない。

マッカーサーが見つけた日本人の弱点とは?
しかし、こんなに日本に恨みを持つ人物が、日本占領政策のトップに就任したとは、私たちにとって最大の不幸だったのかもしれない…。
マッカーサーは1941年からずっと日本人について考えてきた。いや、もっと前からかもしれない。マッカーサーは小さい頃父親と共に来日し、日本軍の英雄である乃木希典や東郷平八郎と会う機会すらあり、その生き方に感銘を受けた日本通でもあった。

そんなマッカーサーだからこそ、日本人の強みの原点は既に見抜いていた。

それは、日本人特有の精神文化、規律のとれた習慣、周りを思う道徳心。

この強みこそ、日本人の弱点になってしまった。「これを奪うことが日本を再起不能にする。二度とアメリカに歯向かわない国にする」と確信した

マッカーサーは、これを教育で徹底的に破壊することに力をいれる

そのスピードは早く、占領開始から2週間もせず「国体」と「神道」の抹殺を命令、2ヶ月後には現行教科書の使用を停止、4ヶ月後には教育界やマスコミから都合の悪い人物を公職追放で駆逐、8ヶ月後には不適格な思想を持つ教職員を排除するための審査を開始。この審査にあたっては、全国130万人もの教職員が対象になった。そして1年後には、高等師範における英才教育の廃止なども行われている

そして、明治より学校教育のベースになっていた「教育勅語」が、「軍国主義を生む」として捨て去られるだが、それを学んできた私たちの祖父母、その親兄弟たちは、そんなに好戦的な恐ろしい人たちだったのだろうか?

さらに、同じく明治から日本が「欧米列強に牛耳られまい」と取り組んだ、日本的なイデオロギーや列強の研究などを扱った書物が、7千冊以上GHQにより葬り去られた。先人の叡智の結晶とも言えるものが、現代の私たちの目には決して触れないようになってしまった

こうして、過去から受け継いできたものを全部捨て去って、日本の教育が空洞化したところで日本人に教えられるようになったのは、「歴史の上澄み」と「平和を愛する民主主義」。

これでは日本が精神的主柱をなくしてボロボロになるのは必然だった。「過去を失い自分の国のなりたちがわからない」とはつまり、「自分のこともわからない」ということ。アイデンティティを喪失し、目隠し状態になった日本人。これは、マッカーサーの計画通りになってしまった。

結果として私たちの多くは自分の国の歴史、特に近代史を「なんとなく」しかわからない状況になり、しかも「侵略戦争をした」とする後ろめたい気持ちすら埋め込まれている。なので外国から謝罪を求められれば、毅然とした対応が取れず、何度も何度も謝罪してしまう。
日本政府や高官が戦後、公式に謝罪に触れたのは45回。非公式ならそれ以上になる。 西鋭夫 スタンフォード大学教授 論説より


今も、、マスゴミ・北朝鮮系総連極左シンパ旧ソ連極左シンパ・日本共産党・日教組などが、声高らかに
軍国主義の象徴とする
「教育勅語」が、・・・・ドイツ復興の原動力


レーガン大統領は就任すると直ちに道徳教育の復興に乗り出しました。当時のアメリカの青・少年の風紀は最悪で、暴力や麻薬の蔓延で荒廃の極に達していました。その原因は皮肉なことに、最高裁判所が「生徒規則や学校規則で生徒の自由を束縛してはならない」と決めたことでした。自由奔放で、やりたい放題で、規律や道徳教育不在では、まともな人物は育ちません。学校教育は成り立ちません。「アメリカは滅ぼされる」とレーガン政権は真剣に対策を検討しました。では一体、誰がアメリカを滅ぼすのでしょうか。敵軍ではありません。それは不良集団と化したアメリカの青少年達でした。

皮肉にもアメリカでレーガン大統領の時代に米国の若者への道徳教育の為の新たな指針と言うことで、日本の修身が再認識され えほんで修身

米国の教育の道徳教育で使われるようになったのです。
米国の道徳教育改革を担っていた米国の文部長官を務めたW・ベネット氏は、
レーガン政権の道徳教育の担当者としての知識をThe Book of Virtues(道徳読本)という本にして出版しました。
 このベネット氏の本のオリジナルとなったのが、日本の教育勅語・修身の研究で有名な小池松次先生が
昭和40年代に出版された 『修身・日本と世界』でした。この「The Book of Virtues」は、現代の第二の聖書と呼ばれるくらいにベストセラー
になり、アメリカだけでなくドイツやイギリスにも広がりました。

日本の修身が、現代になって再び認められるようになったということは、日本の失われた道徳教育は正しいものであったということが証明された
たいせつなおやくそく
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