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Re: デービット・J・ルー著「松岡洋右」とその時代

 投稿者:●之助  投稿日:2018年 5月 6日(日)23時24分22秒
  通報 返信・引用 編集済
  瀬戸山豊74歳さんへのお返事です。

Amazon カスタマーレビューからのコピペですが!

松岡洋右と言えば、国際連盟脱退時の演説と、戦争原因の一つである三国同盟を締結した外務大臣として有名である。

松岡は1892年12才の時に米国オレゴン州に渡り、ベバリッジ夫人により育てられ小学校からオレゴン大学を卒業する1902年まで、開拓精神の残った西海岸で育った。この時の経験が、松岡に、米国に対しては常に「毅然とした態度」で接しなければならない、そうでないとみくびられるとの米国観を修得させることになる。

松岡は、日露戦争の年の1904年に外交官となり、1912年まで中国駐在しているので第1 次辛亥革命を見ている。1916年までペテルブルグ、ワシントン駐在、1921年まで本省勤務となり、牧野全権と共にベルサイユ会議に出席している。この会議で、「外交官は他の人間により決められた外交政策を行う単なる召使である」として、将来の政治家への転身のため、外務省を退職して、1921年7 月-1929 年8 月まで、満洲鉄道理事、副総裁を経験している。したがって、松岡は満洲事情に精通していた。

満洲事変6 ケ月前の1930年2 月に政友会から衆議院議員に当選した。新人議員のとき、ロンドン会議やその後の幣原外相の無作為外交を痛烈に非難している。軍縮比率の譲歩にもかかわらず、移民法の緩和は実現されず、インドでの関税は引き上げられ、シンガポール軍港が築造され、国民の感情や利害は棚に上げて、我が国が隠忍しておりさえすれば、日本と英米との国交は良好となるとするのか。幣原の無作為外交の結論が、蒋介石の北伐時の日本人が虐殺された南京事件であり、開国以来の最大の恥辱である小幡公使アグレマン事件である。満蒙の地において幣原外相は絶対無為、傍観主義が徹底されていると、幣原外交を痛烈に批判している。

満洲事変に対する連盟の決定について、驚くべきことに、中国公使館駐在で中国事情に精通し、三国同盟については徹底して批判したあの重光葵は、満洲問題については第三国の干渉は連盟であっても毅然と排除しなければ、中国は日本との関係において常に第三国の介入を主張するであろう、それを防ぐために日本は連盟を脱退すべきであると主張している。

松岡は、斉藤実内閣、内田外相の下、1932年10月11日、連盟日本全権代表に任命された。その時、松岡は、「日本の満洲における地位は変更できない、連盟から脱退すべきでない。」との考えであった。連盟での4回目の演説である12月8 日の演説が、「人類は2 千年前にキリストを十字架にかけた。しかし、今日はどうであるか。諸君は世界の世論が誤っていないと保証できるか。ヨーロッパやアメリカの人々は、今、日本を十字架にかけようとしている。キリストを処刑したことを後悔しているように、将来、日本を十字架にかけたことを後悔するであろう。イエスが今日理解されているように、我々も世界に理解されるであろう。」という有名な十字架演説である。

連盟の英、仏、伊、独などの大国は植民地支配など現状を維持する立場であるから、日本が連盟を脱退することを望んでいなかった。英外相はリットン報告書の指摘する中国の欠点を強調し、加外相は日本の行動を弁護している。
満洲問題を検討する和協委員会に連盟加入国でもない米、露を加える提案に、松岡は大国の加入により小国による事変前現状復帰案を排斥できると見ていた。

しかし、スチムソン米国務長官は頑なに満洲国非承認であり、内田外相は事変前現状復帰でも、満州国容認でもない提案を拒否し、連盟脱退も止むを得ないと判断した。脱退の可能性が連盟に伝わり、また、関東軍の熱河への進出により、妥協案の模索から、小国側の事変前現状復帰へと連盟の流れは変化した。 しかし、松岡はこの間、一貫して、時間をかけて妥協策を模索し、連盟脱退は考えていなかったし、連盟に留まることを日本政府に伝えていたのである。

満洲は漢民族の地ではなく、清朝が崩壊した後は無主の地であり、軍閥が独立し、馬賊、匪賊の跋扈した地域となり、北京の施政権は及んでいなかった。日露戦争で満鉄経営、満洲権益を得た日本により発展した満洲に、繁栄と平和を求めて漢民族が流れ込んできたのである。満洲の地で利益を得た漢民族は、日本の満洲権益を排斥し、暴動、排日運動を展開して日本人を追い出しにかかったのである。これを抑えて、法治による5 民族協和による平和と繁栄とを築こうとしたのが満洲国建国である。

このような事情のある当時、日本としては、満洲国を認めず、現実問題としては無理な絵に描いた連盟管理( 連盟には管理態勢がないので、元の混沌とした混乱状態に戻ることは間違いない) にする連盟の決議には従うことができなかったのであろう。

松岡は、1933年12月には議員を辞職し、満洲国に渡り満鉄総裁に就任し、1940年7 月19日近衛内閣外相に就任している。松岡は、外務大臣としての三国同盟締結、日ソ中立条約締結、日米交渉を行っている。三国同盟が締結された1940年9 月当時、欧州戦争開戦後1 年が経過し、独ソ不可侵条約は継続しており、仏は既に降伏し、英国は敗戦色が濃く、日本は、米英の蒋介石への武器資金援助により支那事変を解決することができず、米国の日本に対する石油、鉄などの資源、航空機などの輸出禁止又は制限、高関税、ブロック体制などの経済圧迫があり、中国及び日本でのコミンテルンによる日本を戦争に導く攪乱があった状況である。このような状況の中、日本の指導者は、戦争を回避するためにどのような道を選択すべきであったのであろうか。

松岡は、三国同盟を、米国留学で身につけた「毅然たる態度」で米国に接し、将来、日米をパートナーとする太平洋文明への高遠な目標に向かう一つの過程であるとしていた。将来の日米交渉に影響を与えるとは思っていない。ソ連を同盟国側に付けて、米国の参戦を抑制することを目的としていた。その流れに日ソ中立条約の締結があったのである。

しかし、ヒットラーとスターリンが松岡より一枚も二枚も、外交において上であった。結果として、独国は、日独防共協定に反して、独ソ不可侵条約を締結した上でポーランドにソ連と共に侵攻し、日本は独ソ不可侵条約を信用して三国同盟と日ソ中立条約を締結した。その独国がソ連に開戦して、ソ連を英米側に追いやった。日本は、ヒットラーとスターリンとの情報戦に負けたということであろう。日本を戦争に追い込んだ米国のルーズベルト大統領とハル国務長官もスターリンに結局は騙されていた。

確かに、松岡は日本の開戦に大きく関係した。しかし、当時、日本が置かれた国際情勢に身を置いて、政策遂行者として、日本人としての尊厳を維持した上でどのように国策を遂行すれば良かったかを考えるとき、結論が得られない。松岡も日本のためにと思い行動したことは間違いない。松岡だけを責める気にはなれない。

*****************

 デービット・J・ルー著『松岡洋右とその時代』は、米国人研究者の著作であり、日本人

研究者による他の研究書には見られない論点が提供されている。

 1940年(昭和15年)7月22日、第二次近衛内閣が成立する前日、外相親任式を前にした

松岡洋右は、ジャパン・アドヴァタイザー紙のフライシャー記者のインタビューにおいて、

次のように語り、この内容は『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙に掲載された。

「民主主義と全体主義との戦いでは、全体主義が間違いなく勝利を得て、世界を支配す

るだろう。民主主義の時代はすでに終わり、民主制度は破綻を来たした。この世界に、二

つの異なった制度、または二つの異なった経済が並存する余地は無い。一方がもう一方

に屈服しなければならず、全体主義が世界支配を遂げることになるだろう。日本を金と信

用の供与で援助しようという話は、制度と経済の相違から起こる誤信である。何世紀もつ

づくであろう全体主義の後に何が来るかはわからないが、いま全体主義が勝つであろう

ことは確かである。」(デービット・J・ルー著『松岡洋右とその時代』)

 また日独伊三国同盟は、同年9月27日に締結されたのであるが、その約1週間後、松

岡洋右外相は、米国の各新聞に次のようなインタビュー記事を載せた。

「太平洋対岸の姉妹国(アメリカ)がヨーロッパ戦争に参加することになれば、日本はアメ

リカとの戦いを余儀なくされよう」

「私は次のごとき挑戦をアメリカに突きつけたい。つまり、アメリカが満足し切ってのあま

り、盲目的かつ強情に太平洋の現状維持に固執するならば、日本はアメリカと戦うであろ

う。なぜなら、現状を維持するくらいなら滅びるほうがマシだろうからである。」

「正直言って、日・独・伊三国は、アメリカが現在のヨーロッパでの戦争に巻き込まれるの

を防ぐために同盟を結んだ」(同)

 二、

 以上のような松岡外相の挑戦的な強気発言は、当然のことながら米国政府に対日不

信感を増幅したことは間違いない。翌年1月から、最後の日米交渉(諒解案)が開始され

たが、米国政府は、松岡外相に対する強い不信感を持ち続け、交渉相手としての不適格

人物として非難して来るというありさまであった。

著者のデービット・J・ルーは、次のように分析している。

「(この二つのインタビューは)アメリカの政府関係者に日本の外務大臣(松岡洋右)に対

する不信感を植え付けたことだった。控え目に言っても、アメリカの政府関係者と折衝す

るにあたって、それは何の役にも立たなかったし、松岡はそのことに気づいていた。自分

の言動が、外交政策遂行にとって大きな困難を生むことを知っていながら、なぜ松岡は

このような戦術を用いたのだろうか。一つはっきり言えることは、松岡に“対決戦術を好む

傾向”があったことである。松岡は、アメリカ人から尊敬を得るために毅然たる態度を取り

たかった。」(同)

 このルーの言葉を読んでハタと思い当たることは、昨年末の安倍首相の靖国神社参拝

のことである。この言葉は、安倍内閣誕生以来、約1年間、対中包囲網外交を着々と展

開している安倍首相の外交スタイルとも共通しているのではないか。つまり、次のように

言い換えることができるのではないか。

「自分の言動(=靖国参拝)が、外交政策遂行にとって大きな困難を生むことを知ってい

ながら、なぜ【安倍首相】はこのような戦術を用いたのだろうか。

一つはっきり言えることは、【安倍首相】に“対決戦術を好む傾向”があったことである。

【安倍首相】は、【保守層支持者】から尊敬を得るために毅然たる態度を取りたかった。」

 特に、昨年12月初旬、バイデン米副大統領は、日本・韓国・中国訪問において、日韓の

外交関係の調整努力を安倍首相と朴大統領に進言して帰国したばかりであった。韓国

世論からも日韓首脳会談の必要性を主張する論調が出て来た矢先でもあった。にもか

かわらず、あえて靖国参拝を決行したということは、「戦う政治家」を自称する安倍首相

の“対決戦術を好む傾向(性格)”が作用したとしか思えない。

 三、

同じくルーは、松岡外相の対米外交を次のように分析している。

「もともと妥協の余地のない日本軍部の対中国政策とルーズベルトの対中国政策との間

には、いろいろな障害があった。松岡は、日本軍の中国からの完全撤退を主張すること

によって、おそらく日米両国の隔たりを埋めることができると考えたようだった。その見通

しは正しかった。しかし、“対決策”を採用したことにより、成功のチャンスを何もかも無くし

てしまった。“屈しなければ、相手がこちらを尊敬するようになる”というのが、松岡がアメ

リカに対して取った態度だった。」(同)

 松岡外相の対米外交は、一言で言えば「ファイティング・ポーズ外交」であるということ

ができる。安倍首相の「対中国包囲網外交」も、中国に対する「ファイティング・ポーズ外

交」であると思えてならない。これを中国側から見ると「対中国敵視外交」ということにな

る。その結果が、中国の防空識別圏の設定という報復措置となって実現したのではない

のか。また対韓国外交においても「(靖国参拝という)“対決策”を採用したことにより、成

功のチャンスを何もかも無くしてしまった。」ということが言えるのではないのか。

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甲突川健康掲示板 過去投稿

最後に頼れるものとは
http://8108.teacup.com/tomonori/bbs?page=225&

歴史から消しさてはならない 風化させてはならない。叫び!

甲突川健康掲示板 過去投稿 結構若者の投稿あったようだが、若者離れ?


> 私は空想的な物が嫌いですが我々の歴史の中で評価の低い彼が世界でどう評価されてるのか?
> 願望を夢見るのも悪くはなかろうと思わぬでもない。
> 当時の現実的政治の中で彼は国際連盟を脱会する。
> 理想を求めるアメリカは同盟に参加してない、そのごの日本の歴史を顧みると理想と現実のどちらが賢明なのか?昭和天皇が靖国に行かなくなったのは彼が靖国に埋葬されたためだと言われてる。
>
 
 
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