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終戦記念日だ!知るべき真実 その5

 投稿者:●之助  投稿日:2018年 8月15日(水)03時56分51秒
  通報 返信・引用 編集済
  米国による対ソ防諜戦術の変化に伴って、米国共産党にかかる政治的かつ法的な圧力が増大した。この時に制定された二つの法律で米国司法省は米国共産党を弱体化に追い込むことができた。1949年から1957年の間に、外国人登録法(スミス法として知られる)によって米国政府は10人以上に及ぶ米国共産党の最上位指導者らに武力による政府転覆を目論んだ罪で有罪判決を下すことができた。引き続き、トルーマン大統領の拒否権を覆して米国連邦議会が緊急拘禁法(Internal Security Act: マッカラン法として知られる)を可決した。これによって共産主義および共産主義者の関わる組織には政府登録が課せられ、緊急時には潜伏するスパイや工作員の拘束が可能となった。
上記二法案およびその他の的確な政府措置により、1951年頃に米国共産党は部分的に地下組織化することになる。米国共産党幹部達はこの動きを党中枢保護のためにやむを得ないものと考えたが、実質的には米国共産党の弱体化に拍車を掛けることになった。これに加え、ソ連のNikita Khrushchev(フルシチョフ)書記長が1956年に発表したスターリン批判によって、米国共産党内部での議論や士気が消沈し、更なる脱党者が続出することになった。ソ連の諜報幹部達が、厳密な監視下に置かれている米国共産党解体へと舵を切ったことは明白であった。ソ連からは諜報員へ、米国共産党関係者とのあからさま接触を避けるように指示が下った。1953年までにFBIは、米国共産党がもはや潜入諜報工作の深刻な脅威ではなくなったと判断していたが、米国共産党という組織自体については、新たなスパイ獲得の潜在的温床である、と見なしていた。しかし、ソ連の外交官や国家自体に対する集中的な調査や内偵にもかかわらず、公的な身分を保証されて米国に滞在するKGBやGRUの諜報将校らが、米国内で工作員と接触したり、米国内で有形無形の影響力を行使しようとする試みが中止されることはなかった。
その後の「VENONA」
戦時暗号伝文解読のための共同作戦はその後何年も継続されたが(解読成果の多くは1960年代から70年代の内に開示されるはずだった)、「VENONA」解読によって割り出せる米国潜伏のソ連諜報員数は1950年代当時で既に減少してきていた。その結果としてCIAが「VENONA」計画に積極的に参画していくこととなる。1952年のFrank Rowlett(暗号開発者: 第二次大戦中、SIGABA暗号機を設計)CIA着任後、海外諜報部門と防諜部門から選抜された職員に「ヴェノナ」解読成果の使用が許可された。目的は、スターリン死後に亡命してきたKGB幹部やGRU将校の供述を確認/照合するためである。亡命者や転向者の証言はかつて米国防諜諸機関にとって、ソ連諜報工作に関して比較的新しい情報を提供してくれる第一級の情報源であった。米国の防諜担当者の作業は、亡命者や転向者の証言をそのまま捜査に利用するという作業から、その証言を「VENONA」解読成果や関係諸機関からの情報と突き合わせて世界規模で展開するソ連諜報幹部の洗出し作業へと次第に推移していった。このようにして「VENONA」文書は米国の防諜関係者にとって捜査や内偵の道筋を決める大きな判断基準となっていった。
1957年は再びスパイ事件によって報道が過熱する年となった。早速この年の1月からFBIの捜査陣も殺気立つことになる。FBIが10年以上掛けて追い続けてきたソ連側諜報員Jack Sobleとその一味を、二重スパイBoris Morrosの報告を基に拘束したのである。Jack Sobleは1943年4月にVassili Zarubinと行動を共にしているところを、FBIによって現認されていた。さらに重大事件は続発する。同じ年の春には絶妙なタイミングで亡命事案が発生した。不法滞在のソ連諜報員Reino Hayhanen中佐が諜報員としての信用度と能力に疑念を抱かれてニューヨークからモスクワへ送り返されることとなったが、Hayhanen中佐は自国で待つ懲罰を恐れてパリのアメリカ大使館に駆け込んだのである。Hayhanen中佐は彼に指令を与える上司の名前は「Mark」という通称以外に知らなかったが、この「Mark」という得体の知れない男が常駐するブルックリンのアジトについて米当局に詳しく供述したのである。FBIの尾行も巧みにすり抜ける【玄人】である「Mark」の滞在するホテルにやっと踏み込んだときには、工作員を通じて極秘に入手した機密文書や諜報に必要な道具などが見つかった。「Mark」として知られるこの謎の男は1957年6月に逮捕され、「Rudolf Abel大佐」と自分の氏名と役職を名乗り、それ以外は捜査への協力を拒絶した。この男の実名は「William Henry Fisher」であり、英国生まれのKGB上級幹部である。米国には1948年に潜入した。Abelの逮捕によって米国史上初めてソ連による国内諜報活動が摘発されたこととなる。Abelは潜伏諜報員の大物、Iskhak A. Akhmerovの後継者として派遣されていたのかもしれない。
FBIにとって多忙を極めた1957年はニューヨークのGRU潜伏(違法)諜報員、Walter Tairovと Margarita Tairovに対する捜査で暮れた。だが1958年早々に、Tairov夫婦は忽然と姿を消す。夫婦が米国を脱出したのは明らかだった。この二入組に関する捜査は米国防諜/捜査機関がGRU潜伏諜報員に対して展開した最初の作戦行動である。東独のGRUにCIAが独自に潜入させていた諜報員によって、夫婦の片割れを欧州で捕捉した。CIAの潜入諜報員として東独のGRUに勤務していたPyotr Semyonovich Popov中佐から報告があったからである。Tairov夫婦に対する内偵調査はGRU/Popov中佐とCIAの共同作戦であり、これによって防諜作戦上多大な収穫を得ることとなったが、Tairov夫婦もほぼ間違いなく米国側の内偵を察知していたはずである。この夫婦の突然の逃亡と彼等による密告で、不幸にもCIA諜報員であるPyotr Semyonovich Popov中佐(GRU)はソ連に逮捕された(1960年処刑)。
1957年に頻発した重大スパイ事件の背後にある真実(「VENONA」計画)を知っていたのは、ごく僅かの米国情報機関幹部のみであった。打ち続くスパイ事件の捜査/作戦上で、「VENONA」計画が直接寄与したものは一件だけである。少なくとも米国内における対ソ防諜作戦はソ連側諜報員の内部告発や密告に頼らざるえない状況にあった。1957年の時点で「VENONA」から得られる情報がほぼ出尽くしてしまっていたからである。これは米国情報機関の努力不足ということではない。というのも、NSAはソ連関係の通信を常時傍受し詳細に徹底検証した適切な判断の下に、「VENONA」解読班を縮小したからである。FBIも1957年6月にRudolf Abelを逮捕するまで10年以上の間、米国共産党内に潜入捜査官を投入し、不法滞在工作員を追い続けていた。CIAの展開した防諜工作はまず、海外に点在するソ連諜報施設を掌握することであった。この一見回りくどく見える作戦には、ソ連諜報将校の亡命を誘発させるという繊細な目的(REDCAP計画)と米国に不法滞在するソ連工作員の郵便物を監視下に置くという目的(HTLINGUAL計画)があった。こうした地道な努力とは裏腹に、1950年代後半に米国情報機関が入手した手掛かりはどれも決定的なものであったが、通りすがりの他人に与えられたようなものであった。すなわち、パリの米国大使館に駆け込んだソ連諜報員Reino Hayhanen中佐や1954年にウィーンで亡命したPeter S. Deriabin少佐(KGB)である。配置済みの米国側諜報員Popov中佐(GRU)やポーランド情報将校Michal Goleniewskiの功績も無視はできない。ここにおいて、米国の情報戦はVENONA以前がそうであったように、任意の捜査/内偵に頼ることになった。
「VENONA」に対する米国の方針は、情報機関上層部の中でも中枢に所属するごく少数の者にだけ開示する、というものだった。「VENONA」計画で解読が完了したソ連の暗号伝文は少量であったが、其処から読み取れる内容はCIAやFBIなどに、米国が晒されていた重大な事態を認識させるには十分なものであった。重大な事態とはつまり、1940年代のソ連諜報工作が巧妙かつ強引で高度な攻撃性を有していたこと、共産主義および共産主義者の米国政府や国民に対する浸透度は極めて深刻であったこと、そして戦時下においてソ連諜報員が米国内で行使した影響力の全貌にはまだ不明な点があったことなどである。後の西側諸国はソ連諜報工作の攻撃性や巧妙な侵略性が寸分も衰えていないことを身をもって知ることになる。米国情報機関幹部は、米国内におけるソ連の諜報作戦を内偵する防諜職員が不足しており、その防諜手段もソ連に比べて拙劣であったことを認めている。冷戦初期に試みたソ連政府関係者や不法滞在工作員の捜査は大部分が失敗に終わった。ソ連諜報活動について新鮮な情報を得る手段として、Anatoli Golitsyn、Yuri Nosenkoなどの亡命者やAleksi I. Kulak、Dmitri F. Polyakovなどの米国に寝返って隠密裏に米国の掌握下にある二重スパイ等に頼るしかないという状況は1960年代頃まで継続した。彼等のもたらす情報は重要なものも多かったが、時に西側情報機関関係者を空振りさせるものもあった。「VENONA」文書解読で西側諸国に対するソ連諜報活動の動かぬ証拠が明らかになったが、これは「人的諜報」がソ連の諜報活動において極めて有効に機能していたことの証左でもある。このように、「VENONA」文書解読でソ連が入手した豊富な収穫(米国にとっては苦々しいものだったが)をまざまざと見せ付けられていたので、CIAとFBIの対スパイ捜査員達は亡命者の情報を余すところなく調査検証した。
以上のような経緯から防諜上の新たな懸念が生起するまで(とりわけCIAにおいて)時間はかからなかった。米国及び西側情報機関に虚偽情報を掴ませるために、ソ連が亡命事件を偽装するという可能性である。こうした可能性は現代では在り得ないと見なされているが、当時において偽装亡命者入国という懸念を払拭することは困難な状況にあった。ソ連が自身の情報機関防護を目的とし、偽装亡命者投入で虚偽情報を西側当局に掴ませ撹乱させるという潜在的可能性を排除することも不可能であった。現代に於いてその可能性は否定されているが、1960年代当時の米国情報機関は偽装亡命事件の不可能性を躍起になって証明したり、ソ連の流す虚偽情報の影響を最小化することに多くの労力を割いた。
「VENONA」によって得られた情報を厳密に秘匿したまま、米政府は防諜対策を実行していった。その結果、米政府がソ連工作から保護しようとした防諜関係者自身によってその防諜対策の緊急度や必要性を疑われるような事態も散発した。「VENONA」解読成果に眼を通すことの出来た人間は、米国防諜機関上層部でもごく少数であったので、当時情報開示されなかった人物が1940年代のソ連潜伏諜報員について収集された情報の信頼性を的確に評価することはできない。よって、1940年代から50年代にかけて米国社会全体を席巻した国内治安に関する議論や防諜施策群を、経験豊かな米国側諜報員でも「マッカーシー主義者のヒステリー(赤狩りに執着した興奮状態)」と評する場合があった。こうした風潮は米国防諜機関関係者の一部にソ連の米国工作がもたらす脅威を過小評価させる結果となった。
Elizabeth Bentleyは彼女の 【活躍】 も影響し開始された「冷戦」の終結を見ることなく、1963年12月コネチカットで死亡する。彼女は「VENONA」について知ることも、彼女自身の証言が「VENONA」解読に寄与した経緯について知ることもなかった。生前においては、米国旧政権下で共闘した古き 【同志】 全員から裏切り者、嘘つき、犯罪者と非難され続けていた。彼女の証言について巻き起こった論争はその実、単なる小競合いと評価すべきもので、当時の米国が抱えていた問題の本質は、「ソ連の潜入工作による損害の精確な把握」と「国民の自由と国内治安の統制という相反する政策要件の狭間でいかに双方の均衡を保持できるか」ということであった。この度の「VENONA」文書公開で期待される効果は、米国社会における防諜上の不安定要素の迅速な把握と排除である。これらによって、新たに浮上してきたスパイの思想背景や人格を詮索するのではなく、決して表に出てくることはない彼我双方の防諜施策や政府指導者および情報機関の能力に関する具体的な国民世論の喚起が期待される。
 
 
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