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終戦記念日だ!知るべき真実 その4

 投稿者:●之助  投稿日:2018年 8月15日(水)04時01分37秒
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連携捜査

参謀第二部副部長Carter Clarke大佐は1948年8月末もしくは遅くても9月には、Gardnerによる"特別報告書 その1"を読み、FBI渉外担当のS. Wesley ReynoldsにFBIで把握しているKGBおよびGRU諜報員のコードネームの開示を要請した。ClarkeがKGBの暗号解読成果をほのめかしたので、FBIは興味をそそられたようであった。大戦中のソ連将校内偵結果およびBentleyやその他転向者による告発は、米国内に居住するソ連諜報員の実在を示していたが、FBIはこの時点ではそれら諜報員がまだ米国に潜伏中であると確信するに至っていなかった。FBIは直ちに200名ほどのコードネームリストをASAに送った。そのリストにはGardnerの解読結果と重複する名は殆ど見られなかったが、長期間に渡って連携することとなる捜査機関(FBI)と情報(諜報/防諜)機関(ASA、後にNSAへ統合)によって、半世紀後には「ヴェノナ」として有名になるプログラムが、この時点で開始されたと言ってよい。連邦捜査官と暗号解析官の協力関係は現在も持続している。

しかし、政府内で防諜/捜査諸機関の完全な協力体制が確立されるのはまだ数年先であった。関係諸機関から毎日ホワイトハウスへ送付される報告書が未開封のまま照査されることもなく溜まっていくのを不快に思ったトルーマン大統領が諜報戦略情報の大規模な共有統合を提唱した。1945年のことである。彼が企図した中央戦略情報群(CIG)は防諜機密や戦略機密の効率的な処理を目的としたが、その体制は遅々として進展しなかった。米国の情報機関は全体的に大統領やその補佐官達へ防諜情報やそれに関する分析をプレゼンテーションする点で余り良い仕事したとはいえない。例を挙げれば、フーバーFBI長官は共産主義者の策略やソ連側諜報活動について頻繁にホワイトハウスへ報告を上げていたが、それらの報告のうち何件が実際に大統領まで届いたか、また大統領補佐官たちが報告書をどれだけ真剣に捉えたか、は不明なままである。

トルーマン政権下における諜報組織の再編が断片的でほとんど停滞したままであるにも拘らず、防諜組織間の分業体制は第二次大戦初期に比べて大きく進展していた。新しく設立された「国家安全保障会議(NSC)」で、国内治安と国内防諜体制の維持を引き続きFBIと軍部の管轄とすることが決定された(NSC-17/4と17/6、1949年)。「国家安全保障会議(NSC)」に加わっていない組織はNSCに情報提供ができるだけで、国内治安維持に関わる作戦行動に参画することは出来なかった。新しく設置された中央情報局(CIA)はOSSやCIGに組織的に最も近く、それらを継承する機関であり、機密保全についてはOSSの芳しくない評判も結果的に引き継ぐことになった。この時点で、Gardnerらによるソ連暗号の解読成果をCIAが目にすることはなかった。が、前身の一つであるX-2支局に比べて、CIAの防諜幹部にはより多くの「通信諜報」成果を共有することが出来た。また、米陸軍と米海軍の合同機関である「合同防諜戦略情報センター(JCIC)」にもCIAは一時的に参加し、当時最新の諜報機密を得ようとした。これは戦時中のX-2支局による「ULTRA」レポート利用を活動モデルとしていた。Clarke大佐がFBIに接触したのと同じ頃、JCICはGardnerの"特別報告書"を入手した。しかし、FBIはJCICに参加したり、ソ連暗号解読について協力体制を敷こうとはしなかった。1949年初旬にJCICがGardnerの新たな暗号解読成果について情報開示を要求した時、Gardnerの上司であるClarkeは明らかに何も情報を提供しないように指示した。ソ連の諜報活動や暗号解読で得られた戦略情報の統合運用にはこのように派閥主義が渦巻き、人員不足にも悩まされていた。よって「戦略情報の総合的な分析運用」という目標は達成されたとは言えない。その後数年間、捜査上の大きな負荷をFBIが担うことになる。部門間の調整役として最も重要な任務がFBI特別捜査官Robert Lamphereに与えられたのである。

「私は敵の玄関口に気付かれず忍び込んだようなものだった」とLamphereは捜査時の記憶を手繰る。1948年春、LamphereはWesley Reynoldsと共にASAとの連絡任務に就き、その年の10月にはMeredith Gardnerと私的な会合を持った。そして「VENONA」プロジェクトにフルタイムで関わることになった。FBIがASAの解読結果をソ連の諜報活動に対して有効活用できるようになったのはLamphereの忍耐と執念の賜物である。Lamphereを通してFBIは解読成果だけでなく、ソ連潜入工作に対するGardnerの考察なども知ることが出来た。Gardnerらの部署は見返りとして、更なる証拠、ソ連諜報員の身元情報や新たな手がかりなどをFBIから入手した。FBIとASA二者による共同の検証作業は様々な仮定や矛盾する前提と入手済みの証拠を逐一照合していくもので、この作業から得られた成果は非常に大きいものであった。

Lamphereが解読結果を捜査で利用し始める頃には、「国家に対する忠誠」や「ソ連の仕組んだ赤い罠」などについて米国社会全体を巻き込んだ論争がますます過熱し、米ソ関係緊迫という状況が形成されつつあった。1948年7月には、「著名な米国人が反愛国的な活動をしている」という申立てが大衆に暴露された。Bentleyが下院の反米活動監視委員会(the House Committee on Un-American Activities=非米活動委員会)で話したのである。中でも彼女の証言は、Lauchlin Currie(米大統領補佐官)が米国のソ連暗号解読作業に圧力をかけて妨害しようとしたことを詳細に指摘していた(ASAによる暗号解読作業が公式の場で暗示されたのはこれが最初かもしれない)。2,3日後にはWhittaker Chambersがルーズベルト政権下の高官、Alger HissとHarry Dexter Whiteが「隠れ共産主義者」であったことを指弾した。告訴された人々による必死の否定とその支持者らによる支援は、燃え上がる論争に油を注ぐ形となり、ちょうどその年の秋口には選挙が迫って来ていた。共和党議員や共和党支持者はBentleyの証言を諸手を挙げて歓迎した。共産主義者による破壊活動に民主党が無関心であった(放置していた)事実は久しく隠蔽されていたが、その証拠が白日の下に晒されたからである。トルーマンはこのような批難をひどく嫌った。特にAlger Hissの件については、「共和党のでっち上げ」であるとさえ主張した。

トルーマンはAlger Hiss、Harry Dexter Whiteやその他の政府高官に対する告発を否定し続けた。彼らは、トルーマンが大統領執務室を去る1953年1月までに、ASAにおけるソ連暗号電文解読で特定された人物達である。トルーマンが「VENONA」文書解読成果について全く報告を受けていなかったか、報告されていてもその重要性を理解していなかったと推測できる。大統領が全く報告を受けていないというのは奇妙な話であるが、「VENONA」文書解読成果について大統領に報告があったことを示す証拠がないのである。どのような場合であれ、トルーマン大統領の言い分はいつも、「共和党は何でも"国家に対する忠誠"と結びつける」、「大戦下における潜入工作はそんなに深刻なものではなく、米国当局は十分に阻止した」というものであった。

1948年12月、SIMAというコードネームを持つソ連側内通者(工作員)Judith CoplonがFBIによって特定された。1944年にソ連によってリクルートされた若い司法省外国エージェント登録局(米国政府以外から資金提供を受ける、もしくは米国以外の政府の利益のために活動する組織を登録する部署)の職員である。Coplonはおそらく「Venona」文書解読成果を手がかりとして逮捕された最初の容疑者である。FBI捜査官はCoplonと国連職員として潜伏していたKGB幹部を1949年3月、同時に拘束した。このKGB幹部と接触中のCoplonがハンドバッグに機密文書を忍ばせていたことが彼女のスパイ行為の動かぬ証拠となった(この【機密】文書はFBIがCoplonのオフィスで彼女が盗むように仕組んだ囮の偽機密文書である)。フーバーFBI長官か、もしくは(可能性は低いが)より高位のトルーマン政権高官はFBI捜査官がCoplonの公判で「Venona」文書解読成果について証言することを禁じた。米国による暗号解読成果を保護するために、検察官や政府側証人は回りくどい、迂遠な表現を強いられた。Lamphere特別捜査官の証言を例にとると、「Coplonに容疑がかかったのは、信頼できる"秘密情報提供者"の情報提供の結果であって、盗聴によるものではない」などである。このような過程でCoplonに下された有罪判決は控訴審で覆る可能性もあったが、この後、他の諜報員に対して繰り返される公判においても、山のような証拠で隠蔽し、米国史上最高度の機密事項である暗号解読成果は秘匿された。

Coplonの公判過程によって、その後の2年間に集中する捜査から起訴への一連の作業パターンが確定することになった。Meredith Gardnerら(1949年5月より米軍保安局AFSAに支援される)がソ連側諜報員のコードネームや暗号解読成果などをFBIに提供し、LamphereらFBI特別捜査官らはその手がかりに基づいて裏付け捜査を行った。以下、捜査過程の一端を時系列に沿って記述する:


・1949年2月、「G某」が大戦中にワシントンの英国大使館に送られた英国外務省電報について言及する暗号伝文を傍受した。その当時はまだ、暗号中に見られる「G」、「GOMMER」、「GOMER(HOMERのロシア語転写)」等が、KGBに打電している同一の諜報員を指していることは、米国および英国の暗号解読者によって突き止めてられていなかった。しかし1951年5月初旬までにはFBIによって、これらコードネームの指し示す候補者リストの名前が一人に絞られた。英国外務省外交官Donald Macleanである。Macleanと同じく英国人Guy Burgessはすぐにソ連へ亡命せざるを得なくなった。

・1949年9月、「REST」および「CHARLS」というコードネームが戦時中のマンハッタン計画に参画した一人の科学者であることがFBIの捜査で判明した。物理学者であるKlaus Fuchs(ドイツ生まれ英国在当時、理論物理学者)である。彼の論文に言及する暗号電文も一件存在した。英国当局は1949年末に彼を尋問した。Fuchsが英国当局に吐露した情報によって、FBIは1950年5月22日、フィラデルフィアでHarry Goldを逮捕した。

・1950年2月、FBI特別捜査官Lamphereは「CALIBRE」というコードネームが、戦時下でマンハッタン計画進捗中のロスアラモス研究所に投入された中堅工作員ではないかと睨んだ。AFSAによるその後の分析とHarry Goldが提供した情報によって、David Greenglassが捜査線上に浮かび上がった。1950年6月15日、David Greenglassはソ連側工作活動に携わったことをFBIに認め、彼の義理の兄であるJulius Rosenbergの関与も自白した。

・1949年、[NICK」というコードネームを持つAmadeo Sabatiniという男が捜査線上に浮かび上がってきていた。Amadeo SabatiniはKGB諜報員Morris Cohenとスペインで共闘した男である。SabatiniはCohenについて黙秘していたが、FBIの捜査をJones Orin Yorkに向けることになった(ほぼ同時期に「VENONA」文書解読過程で「NEEDLE」というコードネームであったことが判明)。1950年4月の尋問でYorkは共に行動した作戦要員はWilliam WeisbandというAFSA(米軍保安局)の職員であると供述した。翌月にWeisbandは停職処分となる。

・1950年6月下旬、ニューヨーク在住の技術者Julius Rosenbergが、米国で科学技術上の機密を収集した諜報員(LIBERALとANTENNAというコードネームを持つ)に該当するとFBIが断定した。2通の暗号伝文は彼の妻Ehtelに言及していた。RosenbergはDavid Greenglassの証言に基づき事情聴取された。その後、尾行対象としてFBIの監視下に置かれたが、1ヵ月後まで逮捕されることはなかった。

1949年から1950年の間に、1944年発信の伝文を解読し、ハーバード大学で物理学を専攻する学生Theodore Alvin Hallに対するソ連側諜報組織の工作活動を突き止めた。その後まもなく、FBIは他の伝文で使用されたコードネーム「YOUNGSTER(MLAD)」がHallに当てはまると特定し、1951年に捜査官がHallを尋問したが、Hallが起訴されることはなかった(起訴されなかった理由として、Hallのスパイ行為を立証するには「VENONA文書」とその解読成果の開示が不可欠であったからと推測される)。

暗号解読によって、Elizabeth BentleyとWhittaker Chambersによる告発内容が裏付けられた。1950年6月までには、KGB発信の伝文に現れた「ALES」というコードネームは、前国務省補佐官であり現在偽証罪で服役中のAlger HissであるとFBIは特定した。同じ頃、Lamphere(FBI捜査官)はGardnerに、コードネーム「JURIST」は前財務省次官補Harry Dexter Whiteであるという事実を伝えた。Harry Dexter Whiteは1948年8月に米下院反米活動監視委員会でWhittaker Chambersの告発内容を否定した直後(3日後)、心臓発作で急死している。2,3年の後には「VENONA」文書解読によってもう一つの驚くべきスパイ事件が明らかになった。FBIによって「MARQUIS」というコードネームがJoseph Milton Bernsteinであると特定されたのである。Joseph Milton BernsteinはGRU諜報員であり、米太平洋問題調査会と「Amerasia(共産主義者の【資産家】Frederick Vanderbilt Fieldによって創刊。主に極東問題について論じる)」双方の関係者であった。

双方の板挟み

KGBは相次ぐ告発、逮捕、起訴といった事態に驚いたわけではなかったが、モスクワの情報機関幹部はFBIやAFSAと同じジレンマに陥っていた。すなわち、米ソ双方が握る情報源(ソ連:米国潜伏の諜報員 / 米国:VENONA文書)の存在が漏洩してしまうことで情報機関の存立自体が危機に瀕する可能性を孕んでおり、余りに繊細、高度な機密に属するため取扱に非常な注意を要するという性質によってである。米国とその同盟国は容疑者を内偵する場合に慎重にならざるを得なかった。なぜならソ連側も同じく慎重になり、諜報員の曝露を避けるため何らかの防護手段を講じている可能性があったからである。

William Weisband(ソ連側諜報員:ロシア系ユダヤ人、1920年代に米国移住、1938年に米国籍取得)がアーリントンホール(ASA/AFSA)のロシア課に着任した1945年より、ソ連がアーリントンホール(ASA/AFSA)ロシア課を監視下においていたのは確実と思われる。アーリントンホールロシア課で進捗するソ連外交通信解析作業についてWeisbandが最初期にソ連側諜報員として報告した内容はおそらく、米国によるソ連暗号解析の全体像を把握したものではなく、ソ連側暗号が解読され米国に逆利用される可能性についてはモスクワに十分な警告を与えるものではなかったであろう。1947年までにはアーリントンホールに解読可能な伝文群が全て移管されたので、同年までにはWeisbandがKGB暗号伝文が解読されいることを報告した可能性もある。いずれにしろ、米国によるソ連暗号解読成果の概略をWeisbandが掴みかけたところに、英国人外交官Kim Philby(ソ連側諜報員:後に「ケンブリッジ5」として知られる英国人ソ連側諜報員5人組の一人)が米国情報機関の連絡員としてワシントンの英国大使館に着任した。1949年秋である。Philbyは米国情報機関から通常の解読法による解読成果とその分析レポートを職務上誰に憚ることもなく易々と入手した。

Philbyの時宜を得た報告によって、KGBは何人かの重要な諜報員や作戦を保護することができた。1949年10月、Klaus Fuchsと関わった米国在住諜報員達にメキシコへ高飛びするようモスクワから勧告があったことは多くの状況証拠から見て、ほぼ間違いないと思われる。この結果、MorrisとLonaのCohen夫婦、諜報幹部の"MARK"など何人かの諜報員は米国のKGB諜報員達に対して狭まりつつある包囲網をすり抜けることができた(Cohen夫婦は1961年英国で収監される)。

「William Weisband」とは誰だったのか

1950年、Jones Orin York(コードネーム: NEEDLE)はFBIに1930年代半ばよりKGBに機密を横流ししていたことを認めた。西海岸の航空機関連企業の従業員であるYorkが言うには、1941-42年におけるKGB側統括者はBill Weisbandであり、Yorkが文書撮影のためにカメラを購入する時にWeisbandが援助したとのことである(a)。

最も機密度が高く、要員の選定、身元調査も慎重を期すべき米軍保安部(AFSA)にソ連のモグラ(スパイ)が紛れ込んでいるというのは不快な事実である。Weisbandはロシア人の両親の元、1908年エジプトで出生している。Weisbandは1920年に米国へ移民し、1938年に米国籍を取得した。1942年には米陸軍通信傍受部(SSA)勤務となり、北アフリカとイタリアで通信諜報や通信機密保全の任務に就いた。ここでの任務を通じて、複数の重要な【友人】を得ることになった。この後にアーリントンホール(SSA)ロシア課勤務となる。明るく社交的で人当たりの良いWeisbandは暗号解析者としてではなく語学担当要員(流暢なロシア語を操ることができた)として、アーリントンホール(SSA)ロシア課の全作業を知ることができる立場にあった。Meredith Gardnerは自分が1944年12月のKGB暗号伝文から欧米の原子科学者の氏名を抽出する作業を、Weisbandが注視していたことを記憶している。

Weisbandがソ連による潜入諜報工作とのかかわりを認めることはなく、米政府がWeisbandを起訴することもなかった。Weisbandは国家反逆容疑でAFSAの停職処分中、共産党活動に関わる連邦大陪審の聴取に出席するひつようがあったが欠席した。この結果1950年11月、Weisbandに法定侮辱罪で懲役1年という判決が下された。彼は1967年に急死している。

VENONA文書の中にWilliam Weisbandとの明確な関係を示す文書はない。しかし、「ZVENO(ロシア語でlinkを意味する)」というコードネームに言及する伝文は3通存在する。解読済みのVENONA文書で時系列上最も古い伝文は、ロンドン滞在のKGB諜報員がイギリス赴任待ちの「ZVENO」と連絡を取るための手段について言及している。解読された1通の暗号伝文によると、「ZVENO」はヴァージニア州でイタリア語研修課程を修了し、7月中旬までには英国に出航予定となっている(b)。NSA(米国家安全保障局)の記録によると、Wesbandはアーリントンホールでその6月に語学練成課程(おそらくイタリア語)を修了し、7月17日に出航し7月29日にロンドンへ到着している。

(a) YorkがFBIの尋問で語った内容は以下の文書で参照できる:
ワシントン支局覚書「William Wolf Weisband」1953年11月27日 文書番号34

(b) 「ニューヨーク981よりモスクワへ」1943年6月26日。この暗号伝文が完全に解読されたのは1979年である。

潜入工作員として国家反逆行為に従事した政府職員や高官らに対する起訴、公聴会が集中豪雨のごとく米国内で同時発生し、社会全体に非難と疑念が渦巻く状況が形成された。後の世で「赤狩り」と呼ばれる時代の始まりである。このような米国社会全体が共有する感情は、共和党議員が東欧と支那(China)の共産化を許してしまったトルーマン政権の失策を厳しく指弾するときにも色濃く反映された。国際共産主義への「弱腰」もしくは「容認」はトルーマン政権の特徴であったが、「家で惰眠を貪った当然の結果である」と共和党議員に酷評された。米国内では国内治安/防諜(反共)体制を意図的に無視したのではないかというトルーマン/ルーズベルト両政権への抜きがたい疑惑が形成される結果となり、戦時下のアメラジア事件 【1945年OSSの指摘、FBIの捜査により発覚。OSS[米国戦時情報局]職員が自分が1944年に執筆した機密文書の流用を1945年1月「アメラジア」誌上で発見。米国国務省、米国海軍将校、米国共産党書記長、支那系共産党員を巻き込んだ大規模なスパイ事件。1946,50,55,56,57年に米国議会によって調査】 の民主党主導による隠蔽工作の発覚時に世間の非難をより激しいものにした。1953年にはアイゼンハワー政権下の司法長官Herbert Brownellが、1946年にHarry Dexter Whiteに関してFBIから警告があったにも関わらず、これを無視したトルーマン前大統領を非難する事態に発展した(c)。支那を共産主義勢力の手に渡してしまった国務省潜伏の極左官僚へ集中する米国民の怨嗟、自らの背信行為に対して浅薄な言い訳を繰り返す政府職員と彼らに対する米国民の非難、憤激 - これら混沌極める世情の中で共和党上院議員Joseph McCarthyらは用意周到に動いた。「ヴェノナ」計画による暗号解読成果を秘匿しておくという暗黙の了解により、米国は政治的、社会的な犠牲を強いられる結果となった。ソ連潜入工作の深刻度に対する議論は、米国内で信頼できる情報源が失われてしまったことから、米国社会全体を二分した。反共主義者は、米国政府が把握しているスパイなどでもまだ米国社会の広範囲に渡って残存している可能性を疑っていた。一方、政府による愛国キャンペーンを批判する勢力は、容共論者がスケープゴートとして吊るし上げられる結果とならないか、危惧した。彼らは、Julius RosenbergやJudith Coplonらの容疑や捜査結果詳細の全てが米国々民に知らせているわけではないという事実を敏感に察知していたのかもしれない。しかし、国際情勢がますます緊迫していく中、当時の米国政府が知り得た情報を元に決定した「ヴェノナ文書秘匿を継続する」という判断に不合理な点はない。朝鮮戦争の激化に伴い、対ソ宣戦布告の可能性が現実味を増しつつある状況で、米国がソ連に対し保持している暗号解読上の優位性を情報開示によって台無しにはできない、という見解は当然のごとく米国軍事/情報部門指導者のほぼ全員が共有していた。たとえ、モスクワが米国による暗号解読を察知していたとしてもである。

(c) 1953年11月の非難について、Brownell司法長官はアイゼンハワー大統領の承認を得ていた。司法長官も大統領もHarry Dexter Whiteに言及する暗号文書の解読結果に間違いなく眼を通していたと思われる。実際に、アイゼンハワー大統領は1947年の陸軍参謀総長時代に参謀第二部(G-2:諜報担当)より報告を受けていたはずである。FBIがHarry Dexter Whiteについて警告した内容は以下の文書で参照できる:
「HooverからVaughanへ」 1946年2月1日、文書番号16。

 
 
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