teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. 全力全開(0)
  2. 返信ありがとう(0)
  3. ぽろりっ(0)
  4. ぽろりっ(0)
  5. ぽろりっ(0)
スレッド一覧(全5)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:120/3600 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

終戦記念日だ!知るべき真実 その3

 投稿者:●之助  投稿日:2018年 8月15日(水)04時03分45秒
  通報 返信・引用
 

1944年11月、アーリントンホール(SSA)の解析官は、伝文の始点を示す新たな識別子について不明点を解消した。「Trade」伝文群以外の暗号方式については未だに突破口が見当たらなかったが、それら未解読伝文群の手掛かりも見据えて、「Trade」伝文群の解析に取り掛かった。アーリントンホール(SSA)の努力は次第に実り始めた。解析作業の結果、何百もの「Trade」伝文でKGB「OTP乱数表」の暗号鍵と復号鍵が重複使用されていることが判明した。何年にもわたる解析作業により暗号解析官は暗号電文に使用されている「暗号鍵」の数値を特定できるようになった。一方、暗号言語研究者は4桁の数値で符号化された単語や文章の復元に邁進した。

米国当局は大戦中、ソ連による諜報活動の進捗を察知していたが、米国内に多数設置されている防諜機関はまだ連携するまでに至っていなかった。1939年6月の大統領指令で、米海軍情報部(ONI)、米陸軍省戦時情報部(G-2という名で知られる)と連携し、FBIが国内防諜戦の指揮を執ることとなった。これら3部門は合同情報会議(IIC)を設立し、国内防諜活動における独占的地位を保持しようとした。彼らが特に意識したのは、新しく設置された戦時情報局(OSS)とその推進者William J. Donovan少将である。OSSはヨーロッパにおいて優秀な防諜組織(X-2支局)を構築したが、それをアメリカ本土で展開する権限はなかった。

防諜部門間の連携が完全でなかったため、米国防諜組織による戦時下の通信諜報成果の統合と分析、それによる効果的な国家戦略の導出という観点では、各諜報防諜組織がうまく機能したとはいえない。OSSとFBIは独自に暗号諜報作戦を立ち上げたが、どちらも短命に終わった。(OSSもFBIも、偶然にも米陸軍による戦時外交通信傍受作戦「MAGIC(対象は日本)」の成果を開示されていてなかった。)OSSがヨーロッパにX-2支局を開設した目的は、英国諜報機関に接触し、英国がドイツの軍事機密/諜報活動を極秘に傍受解読した成果である「ULTRA」レポートを英国当局と共有することにあった。「ULTRA」レポートは英国諜報機関による高度な作戦群の成果であり、慎重に取り扱う必要があった。しかし、ここでOSSにとって不運であったのは、X-2支局が連合国側でなく枢軸国側の動きを監視していたことである。よって連合国側(特にソ連)との関わりはOSS職員採用時の身元調査ではほとんど調査されなかった。(OSS職員の何人かはソ連のためにスパイ行為を働いた者がいる。)

暗号関係部署の連携不足は米軍内でも同じであった。国内の防諜活動は主にFBIが担った。米陸軍と米海軍双方の通信諜報部署は、調査結果やルーズベルト大統領との会議などはお互いに用心深く内密にしていた。よって大統領執務室以外に、米国政府各機関によって成し遂げられた情報収集/諜報活動の成果(防諜に役立つ情報は言うまでもなく)が総合的に分析検証される場所はなかったと言える。

フーバー長官指揮下のFBIは大戦下で米国共産党を監視したが、その結果得た情報を他の情報機関に全て開示しているというわけではなかった。1943年4月、FBI捜査官は現在稼動中のソ連側の諜報作戦と諜報員に関し本腰を入れて調査を開始した。ニューヨークのソ連領事館館員Vassili M. Zarubin(KGB高官、潜伏中の偽名はZubilin)がカリフォルニア州バークレーに居住する米国共産党幹部Steve Nelsonを呼び出した。ZarubinもNelsonも知らなかったが、FBIは何週間にもわたってNelsonを内偵中であった。Zarubinらの会話は捜査局による盗聴で筒抜けであり、会話の内容からZarubinがKGBでかなり重要な将校であることが推測された(この時点ではFBIはまだGaik Ovakimianの代りにKGBが米国へ送った上級潜入工作員がZarubinであることを知らなかった。 )FBIはこの日からZarubinを監視対象とした。1944年にZarubinが米国出国するまでである。この内偵調査で何百人もの連絡員や手掛かりが明らかになり、連邦捜査官はそれらを分類整理していった。

1943年8月、ロシア製のタイプライターで打たれた匿名の手紙が連邦捜査局の郵便受に届けられた。消印はワシントンであり、この手紙が捜査体制に更に大きな情報をもたらすこととなる。この手紙の差出人は匿名で現在に至っても特定されていない。この奇妙な手紙は北米地域に展開した10名のKGB将校、Zarubin、その他スパイ2名を非難したものだった。その内容は広範で記述も正確であり、捜査局はその手紙を本物であると直ちに判断したが、ソ連が米国の機密を日本に横流ししているとの主張を裏付ける証拠を見つけることは出来なかった。FBIは続いて、手紙に挙げられた人物について調査体制を増強し、特に注目したKGB将校Andrei Shevchenkoにはあ通常の二倍の内偵要員を投入した。しかしFBIは大戦終結後まで、その匿名の手紙を他の防諜/捜査機関に開示することはなかった。そして捜査官も匿名の告発者によって明言されたソ連将校を拘束しなかった。

核の時代

米国政府が運用していた戦時防諜体制はソ連諜報員に対し効力を発揮できなかったばかりか、機密保全を任務とする米国側各防諜機関にとっても不明瞭な体制で、各機関の効果的な運用を達成出来なかった。Steve Nelsonが捜査当局による取調べで最高度の機密であるマンハッタン計画について漏らしてしまうまで、FBIのフーバー長官は米国政府からその計画の存在を知らなかったと伝えられている。これに加えて、ワシントンにおける高度な政治的かつ戦略的意図によってソ連の潜入工作に対する米国側の防諜活動は阻まれることとなった。ルーズベルト大統領はどちらつかずで心許ないスターリン体制をヒトラー体制への防護壁として強化しようとした。大統領の側近も米国共産党を厳しく取締ったり、「共産党党員が米国政府機関に潜入浸透している」という巷間の噂を公式に捜査することはモスクワに対する敵対行為となるので、これを避けようとした。一方、FBIフーバー長官は米国共産党を注意深く監視していたが、少なくとも1945年までは、米国内におけるソ連当局者による活発な潜入諜報活動について強力な防諜対策の必要性をホワイトハウスに具申することはなかった。Donovan少将統括下にあるOSSも、1944年末に亡命したフィンランド人暗号解析者からソ連暗号の検証結果を入手したとき、対ソ防諜策強化に対する米国大統領サイドの消極性を目の当たりにすることとなった。Edward P. Stettinius米国務長官はOSSが入手した暗号検証文書はロシアに返却されたに違いないと主張する。事実、Donovan少将はホワイトハウスの指示に従い、フィンランド人による貴重な暗号検証文書を即座にソ連大使館へ返却した。

核爆弾開発の周辺に張り巡らされた謀略は、1945年当時におけるソビエト連邦の西側同盟国からの離反を象徴し、またその断絶を一層深めるものであった。ワシントンとロンドンは核爆弾を共同開発していたが、モスクワには共同開発について何も伝えていなかった。しかしスターリンへとつながるソ連側諜報ルートは連合国側各国の戦略計画とその目的を、諜報員からの内政、軍事、外交にわたる詳細な報告をもとに把握している。トルーマン新大統領が1945年7月に核爆弾開発を開示するずっと以前から、スターリンは核爆弾開発計画について知っていた。マンハッタン計画(コードネーム: ENORMOUS)に対するKGBの強固な意志は、ソ連の重点的諜報対象が推移したことを意味している。以前の米国は、ソ連にとってまず第一に対ドイツ戦に有効な情報をもたらす情報源であった。しかし今や米国はロシア人の目には、ライバルかソビエト連邦に対する脅威として映る存在となった。ソ連側諜報員は巨大なマンハッタン計画の複数の箇所に潜入浸透していた。ロスアラモスの研究施設だけで少なくとも四人の諜報員がLona Cohenなどの連絡員を経由し、ニューヨークのソ連領事館に報告を上げている。化学専攻の科学者であり、KGB要員のLeonid R. Kvasnikov(コードネーム: ANTON)がロスアラモスでの諜報活動を統括し、モスクワに情報を送っていた。

戦勝の後、米国のソ連に対する認識は変化しつつあった。1945年秋に発生した2件の寝返りで米国防諜機関は活気づくことになる。オタワのソ連大使館勤務であったGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)暗号書記官Igor Gouzenkoが、ソ連の諜報活動がマンハッタン計画およびその他関係諸機関に浸透済みであることをカナダ当局に証言した。約半月後には、米国財務省、OSS(米軍戦時情報局: CIAの前身)、国防総省そしてホワイトハウスなど、各部署におけるソ連スパイの潜入実態がElizabeth BentleyによってFBIに明らかにされた。BentleyとGouzenkoの証言はどちらも、Whittaker Chambers(TIME誌編集者であり、前述GRUのエージェント)がFBIで1942年に語り、そして再度1945年5月に詳述した内容と逐一符合する。1945年11月半ばまでに、ホワイトハウスはソ連側から転向した2名の証言概略を把握するとともに、このBentleyとGouzenkoによる米国内政府高官の国家反逆行為告発が米国政府幹部要員数十人に及んでいることを確認した。ソ連からの転向者であるBentleyとGouzenkoの告発によって、ソ連スパイとして動いた米国政府高官には、ホワイトハウス補佐官Lauchlin Currie、OSS補佐官Duncan Leeや財務次官補Harry Dexter White(ハリー・D・ホワイト)らが含まれていることが明らかになった。

1946年7月に発行されたGouzenko事件に関わるカナダ政府公式報告書は、ソ連の戦時諜報活動に関わる報道機関の警告を追認するものであった。ソ連諜報活動について連合国政府が初めて公式に言及するのは、このカナダ政府報告書が最初である。噂でのみ語られていたソ連による潜入工作の実在を西側政府が公式に認めたことで、共産主義は西側社会の許容範囲を逸脱した。トルーマン大統領は諜報活動、潜入工作や治安維持について、政府規模で取締りを強化する必要性を認めるに至ったが、疑わしい民主党幹部に対する魔女狩りのような拘束や米政府関係者およびルーズベルトのニューディール政策に対して絨毯爆撃のように起訴を繰り返すことは容認しなかった。西側政府が法廷に持ち込める十分な証拠を揃えるまで当面の間、GouzenkoとBentleyが具体的に名指しした人物に対しては重要な国家機密からの遮断以外に殆ど何も対策が採られなかったに等しい。

しかし国内における政治力学によってホワイトハウスは行動せざるを得なくなった。1946年米国連邦議会選挙に伴う政治運動で共和党は、民主党が共産主義者の米国に対する浸透工作を放置したこと並びに民主党の米国民に対する不誠実を責め立てた。こうした運動方針で、共和党が1931年以来の議会主導権を握ることになった。一方でトルーマン大統領は自らの政治的配慮に拘泥するだけであった。議会による恣意的な調査と共和党草案による手荒な愛国立法の抑制を期待して、トルーマン大統領は大統領指令9835に署名した。この大統領指令は戦時下における国家総動員体制を制度化するものであった。その内容はすべての連邦政府機関に「愛国者委員会」を設置し、職員が司法長官が指定する過激派組織に所属することを禁ずるものであった。

BentleyがFBIに詳細を密告し、違法な地下諜報網に風穴を開けたのはこの時期である。違法な地下諜報網とは、KGBもしくはGRU指揮下で活動するソ連市民が身分偽装して潜伏し、ソ連政府との関係を見かけ上は一切排除した地下組織のことである。多数のFBI捜査官が米国中に散開し、Bentleyが名指しした人物らを調査監視した。約一年ほどの間、FBIはBentleyをKGBに対する二重スパイとして運用できないか期待していた。

Bentleyの密告によって加速する捜査が政府内に知られ始めると共に、「Gregory(FBIが情報保全のため設定した「Bentley」を意味するコードネーム)」事件によって多くの手がかりが捜査当局にもたらされたが、ソ連諜報活動に従事した工作員を起訴することはなかった。FBI捜査官は盗聴内容を証拠として法廷に提出することができず、他で捜査進行中の機密漏洩につながるのでスパイを検挙することも制限された。そうするうちに、ソ連の諜報員や諜報将校達は自分たちの身分や活動に関わる重大な機密が米国側に漏洩しているのでないかと憶測するようになった。Bentleyの証言に基づいて多数の人物が参考人招致される連邦大陪審に先立って、ソ連側諜報員達は1947年の内に会合を持ち、口裏を合わせることができた。

ほぼ同じ頃、改称された「陸軍安全保障局(ASA、元SSA)」がBentleyの証言と1943年に差出人不明で届いた手紙の告発内容を裏付けることになる。大戦後にアーリントンホール(ASA、元SSA)の「ロシア課」は拡大され、外交電文解析作業のために多くの技術者や暗号解析者が増強されていた。日本の暗号電文を重点的に解析したSamuel Chewや、ドイツと日本の暗号電文に集中したMeredith Gardnerの功績は大きい。Chewは符号化されたロシア語伝文の基本的構造を突き止めつつあった。Gardnerとその同僚はKGB符号表を分析的手法で再構成していった。1946年の後半、Gardnerはアルファベットを変換する"文字つづり表"を解明した。この"文字つづり表"の解明によって、ASAは暗号伝文中に含まれる人名などについてかなりの量を判読出来るようになった。程なく、Gardnerはマンハッタン計画に関わる著名な原子力科学者の氏名をソ連暗号伝文中に複数人見出すことになる。その暗号伝文は1944年に発信されたものであった。

これ以降、Gardnerの仕事は迅速であった。1944年と45年にモスクワ-N.Y.間で交わされた伝文を読み込み、米陸軍省参謀本部の軍事機密を入手するためにソ連スパイが米国に潜入したことを暗示する伝文を1947年5月に発見した。米国内におけるソ連KGBなどの大規模な諜報活動の実在は、もはやGardnerにとって明白であった。

ここで一つ問題が生起する。暗号文の山からGardnerが見つけ出したこの驚くべき事実をどのようにして、誰に伝えるかということである。ASAにおける通常の報告手順に従うことは適切と思われなかった。なぜなら、情報源を秘匿したまま解読文を開示できなかったからである。この時点でGardnerを含むASAは、Bentleyやソ連諜報組織からの転向者、亡命者らがFBIで指弾した諜報活動や国家反逆行為を調査するために連邦大陪審がマンハッタンで開かれている事実を全く知らなかった。よって、FBIとASAという米国政府内で隣接する二つの捜査機関がソ連諜報活動の証拠を握っているのに、それを知る者は米政府内で誰もいなかった。1947年夏、Gardnerは事態を自分一人で処理した。ソ連暗号解読の成果を"特別報告書 その1"にまとめて、ASA上層部に配布したのである。Gardnerが報告書に記述した下記の断片的な解読成果が、米国にとって重大な国家機密の漏洩であるという深刻な事実をその時点で知る者はなかった。

LIB??(LIEB?)もしくはLIBERAL - 1944年9月29日までANTENKO(後でANTENNAと判明)
1944年10月22日から12月20日までに6回発生
11月27日の発信内容は彼の妻、ETHELに言及 - 29歳で結婚して5年(?)
「......夫の仕事とMETR(O)とNILの役割」

 

 
 
》記事一覧表示

新着順:120/3600 《前のページ | 次のページ》
/3600