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終戦記念日だ!知るべき真実 その2

 投稿者:●之助  投稿日:2018年 8月15日(水)04時05分26秒
  通報 返信・引用 編集済
  概略 訳文は下記に

【VENONA】 CIAによる「ヴェノナ」文書概略
Venona: Soviet Espionage and the American Response, 1939-1957
ヴェノナ: ソ連諜報活動と合衆国の対応 1939-1957


序文

1948年夏、ある報道が蒸し暑いワシントンの気温を更に上昇させた。その報道は「金髪のスパイ女王」と派手に伝えられ、「第二次大戦下の米国内に張り巡らされたソ連諜報網の実在を示す確たる証拠を、その女スパイが三年前の時点で連邦捜査官に提供している」というものだった。日を置かず、人々は「Elizabeth Bentley」という女スパイの名前を知ることとなった。Bentley と元共産党工作員Whittaker Chambersの2名が議会証言として頻繁に告発を繰り返したからである。

共和党議員や共和党有力者達は二人の告発内容から、「ルーズベルト・トルーマン政権下における容共政策の横行と国家安全保障の軽視である」と非難した。顔に泥を塗られたことになる政府内外の要員や、再選を目指すトルーマン政権に風当たりが強くなることを恐れた民主党は「BentleyとChambersが伝聞や中傷を繰り返しているに過ぎない」と言い募っていた。

「本当の事実」を探り当てる決定的手掛かりとなったかもしれないBentleyのある重要な証言は当時の過熱する報道に紛れ、世論には置き去りにされてしまった。Bentleyの重要な証言とは米国連邦大陪審におけるもので、「ソ連の極秘暗号が大戦下の米国諜報機関によって解読される寸前にあることを知った米国補佐官が諜報員を通じソ連側にその事実を密告していた」というものである。この逸話が冷戦下における米国側の著しい戦果の一つとして、 巷間で30年の間まことしやかに語られることとなった。

Bentleyの告発と、それを受けて世間で高まる論争は、アメリカが経験した諜報戦の特徴をよく捉えており、国家総動員体制の総力戦下において「国内治安」をいかに維持するか、という切実な課題とも関わっていた。欧米の民主主義は「国民の自由や法律の適正運用」と「ファシスト政権や共産主義政権による潜入工作無力化」をいかに両立するかという問題で、60年の長きに渡って葛藤し続けてきた。

二十世紀半ばのソ連は、諜報員経由で外国機密に潜入し、情報を収集する「人的諜報」を得意とした。合衆国政府は、外国の暗号電文を傍受し分析する「通信諜報」を得意とした。冷戦初期、二大国が誇る諜報活動が真っ向からぶつかり合った。その衝撃は60年経った今でもまだ余韻を残している。誰も知らず見ることもなかったこの激闘を如実に物語るものが「ヴェノナ」である。

「ヴェノナ」という用語は特定の暗号解読成果に対する閲覧を制限するため、対象となる文書に押印された任意の符牒のことである。「ヴェノナ」という符牒で書庫化されたことにより、欧米の防諜専門家は1940年から1948年の間に交わされた2,900件に及ぶソ連の外交電文を読むことできるようになった。これらの暗号電文にはいずれも、解読作業に対して、ある脆弱性を露呈していた。それは日付、出典、話題などが異なる電文間で共通していることなどではなくて、各電文が固有で独立していることに由来する脆弱性であった。

合衆国と連合国諸機関は原文の暗号解読とそれに続く難解なパズルのような判読作業に40年以上を費やした。この暗号解析作業が公式に終結する1980年まで、事情を知る合衆国諜報機関の関係者にとって「ヴェノナ」という符牒はこの 【書庫化された文書の解読解析を意味する用語】 となった。

潜入工作に晒されるアメリカ

連合国と枢軸国双方にとって、1940年代の合衆国には格好の諜報対象が存在した。米国政府の戦略計画と米国の軍需産業や実験施設で生み出される研究成果である。ベルリンと東京、そしてモスクワはあらゆる手段でそれらを入手しようとしていたが、枢軸国サイドの北米における諜報活動は目ぼしい成果を挙げられなかった。枢軸国側のスパイ網と諜報員は大戦初期において既に、連合国軍防諜機関および民間防諜組織によって把握されていたからである。一方、ソ連の諜報活動は米国内のみにとどまらず、複数の局面で目覚しい成果を挙げたと言える。1940年代から50年代のアジア地域における軍事的緊張と不安定化はまさしく、ソ連の幹部諜報員らに導かれて現出した。この状況形成には、モスクワの諜報作戦群に遅れて情報収集能力を増大させてきた西側諜報機関も関与している。

米国内での諜報作戦が悉く潰えた枢軸国側諜報機関と違い、ソ連側諜報機関の成功にはいくつかの理由があった。

第一の理由として、ソ連の諜報機関は統制の取れた作戦行動や豊富な情報源といった点で、枢軸国側の諜報機関より【優秀】だったことが挙げられる。

第二の理由としては、米国の同盟国という立場を利用し、多数のソ連政府関係者を諜報員として米国本土に展開配置できたことが挙げられる。これによって米国内での諜報戦はソ連にとって優位に推移した。これら二つの理由よりも更に大きいものは、多くのアメリカ人がこのロシアを同盟国の戦友として物的支援するのみではなく、言論の面でも支援するべきだと考えたことである。この第二次大戦下における米ソは蜜月関係にあった。この期間には実際に米国市民がソ連側に機密事項を自発的に漏らした事例も発生した。ソ連政府関係者においては、米国側からの高度な情報開示と厚待遇を満喫した。最後の大きな理由としては、米国内で展開済みのスパイ網が「アメリカ合衆国共産党(CPUSA: 以下、米国共産党と記述)」の組織力や基盤を有形無形問わず活用できたことが挙げられる。モスクワは米国内の傘下組織を統括することで機密情報を効率的に収集した。「共産主義インターナショナル(コミンテルン)」が米国共産党を監視し、党内に内密で設置された諜報部署を統率管理した。


世界大恐慌は米国国民に資本主義の衰退を予感させ、ヒトラー・ムッソリーニ体制に対抗するスターリンの姿は、ファシズムに対する世界唯一の防御壁はロシアで進捗する社会主義的実験であると、何千人もの生粋の米国人に錯覚させることになった。こうした状況下で1930年代後半には米国共産党の勢力が頂点に達し、米国社会である程度の影響力を保持するに至った。

米国共産党の指導層と複数の党内有力者が米国内各地で政治や経済産業に関わる情報収集に携わった。それらの情報はソ連側諜報機関に集約されることになる。1939年の独ソ不可侵条約でソビエト連邦共和国自身がナチによる侵略の片棒を一時的に担ぐ形となったため、合衆国共産党は1/3の党員を失うことになるが中枢部は隠然たる影響力を維持していた。これに加え、領事館付武官として派遣されたソ連軍(GRU)諜報将校がコミンテルンと協力し、共産党の息がかかった米国政府内や米国企業内の諜報員と連携していた

ソ連が保有するもう一つの諜報機関-NKVD(後のKGB)は独自の諜報手段を確保していた。NKVDとはソ連の秘密警察で民間団体に擬装した諜報機関である。NKVDは長い間、内部粛清と党内抗争による亡命者に対する秘密工作に忙しかった。これらの活動は少なくとも米国内ではGRUの陰に隠れて目立たないものだった。このGRUとNKVD二者の相関関係は大戦中において崩れることはなかった。

KGBとGRUは米国内に構築済みの合法的諜報網と違法な地下諜報網を同時に駆使した。合法的諜報網を使用する場合は外交官などがその任務に就いた。ソ連側諜報員として外交官の法的に隙のない身分を利用できるからである。ここで重要なのは外交官が諜報員を兼ねているのではなく、専門の教育訓練受けたソ連側幹部諜報員が外交官に擬装して米国に潜入しているという事実である。これら合法を装った幹部諜報員の展開先としては、外交官や貿易関係者、そして報道関係者などが挙げられる。展開先の具体的な実態を示すと、諜報員達は「アムトルグ貿易会社(米国による同盟承認前にはソ連貿易代表部として機能)」、「ソヴィエト連邦購買委員会」、「タス通信」などの適法組織内に隠蔽隔離された 【居住区】 を与えられて諜報活動に従事した。以上のように身分や適法性を担保された潜入形態と対照的であったのが、違法な地下諜報網である。ソ連による地下諜報網はソ連上層部との関係を一切表には出さなかった。このような地下組織の運営に携わったのはソ連からの不法入国者である。ここでも留意しておくべき点は、不法入国者が諜報組織に吸い上げられたのではなく、ソ連の職業的諜報員が明確な意図を持って米国に不法入国してきたということである。不法入国者であるなら、身分や氏名などは好きなだけ偽れる。

更に大胆なことには、GRUやKGBから複数の諜報員が米国共産党の幹部として潜伏しており、偽装党員としてソ連諜報員が従事する極秘任務は多かれ少なかれ、米国共産党指導部やコミンテルンも把握了承済みであった。一例を挙げるなら、KGB幹部であるJacob Golos(コードネーム: SOUND)はソ連資本の合法企業「World Tourists」をニューヨークで経営する傍ら、米国共産党中央統制委員会に勤務していたとされる。

Golosの愛人、Elizabeth Bentley(コードネーム: SMART GIRLもしくはMYRNA)は、身分素性の合法的迷彩により米国社会で表立って行動できる諜報作戦群から離脱し、1930年代後半には地下活動に従事するようになっていた。Bentleyはかいがいしく愛人Golosの諜報活動と企業活動を「陰から」支えた。まさに「内助の功」である。

スターリンが企図した諜報対象は4つに絞られていた。スターリンから直接指示を受けたのは34歳のKGB第一総局主任Pavel M. Fitinである。その具体的な指示内容とは:

1.ヒトラーによるソ連侵攻について米国が把握している機密情報
2.ロンドンとワシントンが秘匿している今次大戦の真の目的、特に欧州における二次戦線について
3.連合国内においてヒトラー政権と単独講和を探ろうとする徴候の有無
4.米国における科学技術開発の成果、特に核兵器開発


の4つである。

第二次大戦中の米国内におけるソ連側現場担当諜報員によって収集された情報は多数の諜報専従将校らを経由してモスクワに集約された。現場担当諜報員の上長にあたる諜報専従将校らは中央に報告を上げ、新たに中央から出てくる命令や諮問事項を現場担当諜報員に下ろした。米国内での実際の諜報活動は正規入国者としてニューヨークやワシントンに潜伏していたVassili M. Zarubin(コードネーム: MAKSIM)や不法入国者として長い経歴を持つIskhak A. Akhmerov(コードネーム: MERもしくはALBERT)などの老練なスパイの手によって遂行された。しかし米国内に展開された諜報員群が1930年代のスターリン粛清によって人員不足となったため、新しく補充された作戦要員の中には「ぎこちない新兵」をそのまま絵に描いたような人員もいた。ソヴィエトから派遣された新人諜報員の多数にとって、米国は初めての海外任地であった。 Elizabeth Bentleyは”ジョン”なる偽名を持つ新人諜報員(本名: Anatoli A. Yatskov、コードネーム: ALEKSEI)に初めて会った時の印象を以下のように語った:

『痩せて、血色も良くない金髪の若者。身長はちょうど私と同じくらい。欧州製丸出しでサイズ違いの似合わない服を着て・・・。ろくに食事も摂ってないような貧相な見てくれはソ連新人諜報員の特徴でした。彼の話す英語は片言といっても良い位で、話している内容を理解するのにひどく苦労しました。アメリカ風の生活には見向きもせず、完璧といって良いほど無視していました』

この"ジョン”は、その体裁の悪い諜報員デビューにも関わらず、原子力爆弾に関わるソ連の諜報作戦において主要な役割を担うことになる。

大戦後期、特に1943年3月にスターリンがコミンテルンを解体した後には、GRUとコミンテルンによって構築された諜報資産やスパイ網をKGBが引き継いでいった。ソ連政府組織の再編 によって、KGBが政治的任務も担当するようになる一方で、GRUはより純軍事的な科学技術情報の収集に注力していくことになった。そして米国共産党との共同作戦に従事していた諜報員群はソ連の直接管轄下に置かれることになる。この整理統合によって米国内で順調であったソ連の諜報作戦群に大きな危機が訪れることになった。米国内におけるソ連諜報員と作戦概要について知り尽くしていたBentley(米国国籍)とその他複数のスパイ達(米国国籍)が一連のソ連政府組織再編と米国内諜報組織の整理統合に憤慨したのである。

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遅い対応


1930年代後半、世界中で猛威を振るいつつあった全体主義者や共産主義者らによる破壊工作に米国は懸念を募らせていた。欧州戦線の概況と独ソ不可侵条約締結という状況から、J. Edgar Hooverを長官とするFBIは、ロシア人と関わりを持ち、疑わしいと思われる民間人や組織を調査対象のリストに載せた。米国人と外国人共産主義者が米国の偽造旅券で海外渡航しているという国務省の内偵結果を受けて、連邦捜査局(FBI)特別捜査官が複数の米国共産党関連施設を強制捜査した。1939年のことである。そこで押収した十分な証拠をもとに、米国共産党総書記 Earl Browderを旅券偽造の容疑で拘束した。

1940年、英国ウーリッジ王立兵器廠でスパイ事件が発生した。この事件を担当したイギリスとカナダ当局の捜査線上に、ニューヨーク正規滞在者 Gaik Ovakimian(KGB上級将校、コードネーム: GENNADI)が浮かび上がってきた。FBIは Ovakimian の身辺調査を開始し、1941年5月に Ovakimian を外国人登録法違反の容疑で逮捕した。この諜報戦初期の捜査で、ソ連スパイ組織や諜報手段について得られた情報は諜報戦が本格化した大戦後期以降に非常に役立つものとなった。

しかしながら当時の米国当局は現代からは望ましかったであろうと思われる断固たる対処に踏み切らなかった。その時点で少なくとも米国内のソ連側諜報組織に3名(Alexander Orlov, Walter Krivitsky, Whittaker Chambersの3名)の転向者(寝返り)が発生しており、米国政府関係者による十分な保護の下その3名の綿密な事情聴取を終え、捜査当局にも比較的新しい情報がもたらされていたにも拘らずである。更に1941年6月のドイツによるソ連侵攻によってソ連に対する米国の対応は反転した。米国国務省はモスクワと素早く合意し、Ovakimianの出国を許可した。同様に、ルーズベルト大統領は「同盟関係」という観点から1942年5月、共産主義者Browderの刑を減刑した。FBIは調査監視の手を緩めることはなかったが、強制捜査や訴追は取りやめになった。

どのような対外諜報機関であれ、外国に派遣された諜報員との間に安全な通信手段を確保しておく必要がある。ソ連の諜報機関は外交で使用する無線通信機を米国内複数の都市に内密で配備していたが、緊急時のみに使用されるものだった。よって、KGBとGRUの米国内支局は商業用電報を使用することもあり、大量の書類が詰まった外交文書用郵便に諜報員が収集した情報を忍ばせて郵送することもあった。

1939年、欧州における戦況が怪しくなりかけたころ、米国陸軍はソ連の暗号電文収集を開始した。米国陸軍通信傍受部(SSA: 国家安全保障局NSAの前身)のオフィスにはすぐさま何千のもの通信電文の山が積み上げられることになった。1942年6月に米国海軍とFBIと間で交わされた協定によって、諸外国の外交や軍事に関わる暗号の解析を米国陸軍に委任することとなった。こうした経緯で米国陸軍が外交通信を担当するようになる。

SSA解析官は直ちにアーリントンホール(Arlington Hall: バージニア州北部、陸軍通信傍受部の本部施設、以下「アーリントンホール」と記述がある場合はこのSSAもしくは後継のASA、AFSAのこと)で収集されたソ連外交文書の判読可否について調査を開始した。それまでの十年間は陸軍と海軍がそれぞれ単独でソ連側の符牒や暗号を分析していたので余り成果は挙がらなかった。日本陸軍参謀とベルリン/ヘルシンキ駐在武官との間で1942年に交わされた電報を解読した結果、フィンランド人の優秀な暗号解読者がソ連の軍事暗号解読について一定の成果を挙げていることが分かった。その成果とは、ソ連の暗号で解読部分と未解読部分を抽出整理し、解読不可能な電報の暗号パターンを特定しており、この成果はドイツから日本軍にも提供されていた。この情報はSSAによるソ連側電報の検証で即座に反映されたであろう。1943年2月1日、米国陸軍諜報部(MID)特別局主任 Carter Clarke大佐の命令により、SSAはソ連の暗号電報を解析検証する小規模な作業を開始した。Clarke自身はモスクワとベルリンの単独講和を懸念しており、陸軍上層部にそのような事態を警告するための証拠を探したかったようである。

アーリントンホールの民間人部隊にバージニア州の学校教師Gene Grabeelが派遣され、ソ連側外交文書の解読作業に加わった(彼女はその後36年間、このプロジェクトに従事することになる)。彼女とその他の民間人には保存済みの電報と通信網から逐次入電される電報の整理が割り当てられ、何ヶ月もその作業に関わった。彼女等はフィンランド人の暗号解読者(前述日本軍の通信傍受で判明した成果)が特定していた暗号パターンを整理検証し、独立した暗号パターンが5つ存在することを突き止めた。

半分以上の電報は彼女等が「Trade」という名をつけた暗号パターンを使用していた。「Trade」という暗号パターンは文字通り、「アムトルグ貿易会社」や「ソ連購買委員会」による電報で、ソ連軍需物資および貸与品の輸送に関わるものであった。他の4つの暗号パターンはKGB、GRU、海軍GRU、外務省によって発信されていたが、これらの発信者が特定されたのは1940年代半ば以降である。

モスクワは既に高位の諜報員から敵国および同盟国でソ連の外交電報解読が進捗中であるとの報告を受けていた。1941年6月には、フィンランド軍がペツアモ(Petsamo)に在ったソ連領事館跡から焼け焦げた暗号符号表と暗号方式に関わる文書を回収済みで、1941年末までには、ドイツが同盟国フィンランドによって回収されたソ連の暗号符号表を入手しようとしている、とベルリンのソ連諜報員によってモスクワに報告が上がった。報告された状況をモスクワは意に介さなかった。なぜならソ連が使用する「ワンタイムパッド法」の秘匿性は符号によって確保されるものではなく、暗号化方式それ自体によって確保されるものだからである。漏洩したKGBの符号表はソ連において1943年まで取り替えられることはなかった。もう一つの重要な情報は英国諜報将校であり、ソ連の諜報員(二重スパイ)であったH.A.R. "Kim" Philbyによって1944年にもたらされた。「英国の暗号解析部署がソ連の暗号を注視し始めた」とKGBに報告したのである。

Philbyはおそらく、米国側のソ連暗号解読作業については何も報告しなかったであろう(合衆国の暗号解読部署と英国該当機関がソ連の暗号伝文について連携するのは1945年8月からである)。しかし、KGB上層部はホワイトハウス補佐官Lauchlin Currieが「米国側がソ連の暗号を突破寸前である」と諜報員を通じて密告してきた時(おそらく1944年春)はさすがに焦ったかもしれない。Currieはホワイトハウスの通信諜報部署に出入りが可能で、そこで「米国陸軍通信傍受部(SSA)が間もなくソ連の暗号解読に成功する」というかなり楽観的な噂を耳にしたのかもしれない。Currieのタレコミはソ連の暗号開発者を警戒させるには少し曖昧すぎたが、モスクワの上層部はそれに反応したようである。この頃の暗号に見られた変化は表面的な修正のみで上層部を満足させる為に実施されたように見える。1944年5月1日、KGBの暗号書記官が伝文の始点を示す新たな符号を電報で使用し始めたからである。この変更は皮肉にもSSAの解読作業を推し進めるものとなった。

Venona計画の解読過程

「Venona」計画が突破した伝文は符号化された上に暗号化されたものであった。ソ連の暗号方式を開発した暗号研究者は「ワンタイムパッド(以下、OTP乱数表)」による暗号化で完全な情報秘匿性を確保しようと企図した。「完全な情報秘匿性」とは、根幹となる符号表を敵方が入手したり、亡命した暗号書記官が事情聴取された(Igor Gouzenkoなどのように)としても揺るがない「情報秘匿性」のことである。しかし、そのように符号表や暗号作成者に依存しない暗号伝文は、その伝文それ自体への解析に対しては脆弱性を露呈していた。「Venona」計画の解読作業はこの脆弱性を突いた。1943年から46年にかけて見られた「Venona」計画の進展は、ソ連の符号表や暗号化前の平文を入手して達成されたものではなく、純粋な分析的手法に基づいて得られたものだった。1944年から1946年の暗号伝文の大半は、アーリントンホール(SSA)の暗号解読者兼言語学者 Meredith Gardner によって解読復元された。Meredith Gardnerは古典的暗号解読法に従い、何年も掛けて独自に作成した"符号表"を作り上げた。

ソ連の暗号書記官が暗号伝文送信時に実施する作業は、符号表(一般的な単語や常套句が4桁の数値で表現された「辞書」のようなもの)を元に文字を数値に還元していくことである。平文を数値でコード化したあと、暗号書記官はその数値コードを一桁づつランダムな数列に変換し、更に擬装する。二回目に数列変換されたこの工程は「暗号鍵」もしくは「復号鍵」と呼ばれ、このランダムな数列を「OTP乱数表」として発信者と受信者双方が共有するものであった。「OTP乱数表」は袋に封入され、定期的に小包として領事館に届けられた。「OTP乱数表」は1ページに付き、5桁の「暗号鍵」60個で構成され、いつも左最上段から順に使用された(使用するパッドのページ番号はたいていの場合、伝文のどこかに隠されていた)。暗号変換を必要とする伝文の増大により、ソ連の暗号書記官小包で送られてくる「OTP乱数表」を使い果たした。

このような暗号復号方式の情報秘匿性は、「OTP乱数表」の「暗号鍵/復号鍵」組合せが無作為であること(つまり、組合せが予測不可能であること)と、発信者と受信者が共有する「OTP乱数表」に同じ組合せが他に存在しないという唯一性にあった。ソ連の各組織や機関は彼ら自身の符号表を使用した。符号表の改訂サイクルは約2,3年であったが、符号変換の迅速化、利便性のために情報秘匿性の確保が犠牲になった場合は改訂時期も先延ばしになったであろう。

ソ連側暗号伝文の脆弱性は、乱数発生器の誤作動や暗号書記官による「OTP乱数表」の転用の結果などではなくむしろ、同じ「OTP乱数表」重複印刷の結果であった。ソ連の社会主義体制にとっては苦難の時であった1942年初頭の2、3ヶ月間、ソ連内KGBの暗号研究センターは理由不明ながら、35,000ページ以上に渡って同一の「暗号鍵」と「復号鍵」を印刷し、それらをまとめた「OTP乱数表」を発行した。アーリントンホール(SSA)Richard Hallock中尉は「Trade」という名で分類された暗号伝文を解析し、異なるOTP乱数表から同じ「鍵」の流用(ページ数は違う場合がある)が集中的に発生している証拠を導き出した。この結果から見かけ上は唯一性を保つが同じ「鍵」ページを持つ2組のOTP乱数表が作成された。一回だけの「OTP乱数表」流用が分かっても暗号解読はできないと言う意見をよそに、Hallock中尉とその同僚は「Trade」暗号伝文群を解析し続けた。その結果、外交文書で使用される暗号化方式の解明過程で注目すべき成果を挙げた。このHallockの成果から更に分析を進めた結果、発信日時も使用者も異なる伝文の中から、同じ「鍵」ページを使用した伝文を特定する方法を編み出した。同じ「鍵」ページの使用は1942年半ば頃に始まり、1948年にも一度発生した。が、同じ「鍵」ページ使用を特定できる伝文の大部分は、ソ連の外交通信が著しく増大した1942年から1944年に発信されたものである。

米国側には何時ソ連が暗号の脆弱性に気付いたのか特定できないが、諜報員のWilliam W. WeisbandとKim Philbyがモスクワにタレ込んだと確信している。「OTP乱数表」印刷重複という暗号生成以前の欠陥をソ連が自覚する前に、同じページが重複したまま発行された「OTP乱数表」の殆どは既に使用済みとなっていた。上述の通り、脆弱性を孕んだ伝文は、同じ「鍵」の重複発行により発生し、米国側の暗号電文精査と「鍵」の重複伝文特定で暗号解読者に特定されるに至った。しかし、重複使用部分を特定してもそれは、「解読できるの可能性がある」というだけで、多くの通信伝文は37年を経た今も解読不可能なままである。

Cecil James Phillips
National Security Agency
 
 
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