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活字を妄信するな  その1 

 投稿者:●之助  投稿日:2019年 3月28日(木)07時44分0秒
  通報 返信・引用 編集済
  下記は、7・8年前から投稿しようかと書き溜めて置いたものです。

いい機会ですので、

活字を妄信するな   

司馬遼太郎を妄信するな

この洗脳に騙されると

現在の 韓国・半島人が理解不能に陥る

今流行の、個人攻撃だ!  ヘイト!だ

昔の書物を蒸し返しても  どうなる



「故郷忘じがたく候」。
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88-%E6%95%85%E9%83%B7%E5%BF%98%E3%81%98%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%8F%E5%80%99-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4167663147/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1553535124&sr=8-1&keywords=%E3%80%8C%E6%95%85%E9%83%B7%E5%BF%98%E3%81%98%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%81%8F%E5%80%99%E3%80%8D



その中身は豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき多くの朝鮮人が日本に連れてこられましたが、

その数は5万人とも10万人ともいわれます。

各藩が独自につれてきたものです。


薩摩藩もかなりの数の朝鮮人を連れてきましたがそのなかに陶工がいた。

薩摩はそれらの陶工を苗代川(現、美山)にすませ陶器を焼かせこれが薩摩焼になったといいます。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92899-2431+%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E6%97%A5%E7%BD%AE%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%B8%82%E6%9D%A5%E7%94%BA%E7%BE%8E%E5%B1%B1/@31.6423485,130.3514124,15z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x353e6a433789a7cf:0x7886fe3927f11345!8m2!3d31.6429337!4d130.362442

その中心者が沈寿官であり、薩摩藩はこれらの陶工を士分とし待遇し武士としての身分をあたえました。


しかし彼らは故郷朝鮮を忘れることは無く、

しかしもっとも薩摩人らしく薩摩武士として生きているという物語でこの美山から終戦時の外務大臣東郷重徳がでたという物語なのです。


司馬遼太郎の興味は

「日本人とは何か」


ということで民族特有の性質などはなく日本人らしさも朝鮮人らしさなど無いといいます。

これは司馬史観といわれるもので。


この史観(時間軸的思考)に疑問がわき

最近では
「民族とはなにか」。


そこで司馬史観により美化された沈寿官



14代は韓国人?日本人?

 「鹿児島県旧士族沈寿官家は
その韓国ふうの姓名が世襲であり、戸籍名であり、いまの第14代の当主もその名なのである」(同書8ぺージ)

「薩摩に連れて来られて以来、江戸時代からこんにちにいたるまでついにその姓名をかえようとしていない」(同書9ぺージ)とあるがこれが全くの嘘なのである。


 14代の戸籍名は大迫(吉本)恵吉 。

大正15年12月3日に誕生すると、
既に日本姓を名乗っていた吉本祐康、その妻テイの実子として届けられる。

テイは13代の実妹。そのあと、昭和31年2月22日に大迫エダ(実母・ハマノの母)と養子縁組をする。


この14代が沈姓になったこと。

それは実父13代の死(昭和39年3月31日)の前日、

妻と共に実父・実母の養子となるが、それから半年も経たないうちに大迫姓に戻っている。

従って、旧制二中入学時は吉本恵吉。ところが、司馬の書では本名は伏せられ、沈姓で終始する。



そこから次のような捏造がまかり通る

 入学早々、教室にすぐ上級の者が数人はいってきて、

「このクラスに朝鮮人が居っとじゃろ。手をあげい」とわめいた。(同書40ぺージ)。

上級生たちは「新人生名簿によって韓姓の少年がいることを知っただけであるし(同書41ぺージ)。

その後、上級生たちは「沈少年が名乗らなかったということで、少年たちは激昂した。

精神を注入してやる、と吼え、沈少年を教室のそとへ出し、屋上へつれてゆき、十人ほどが寄ってたかって殴った」(同書42ぺージ)

となる。この暴行の場面は朝鮮人迫害の恰好の例として、在日朝鮮人作家・金達寿、金一勉がそれぞれの著作で踏襲する。

秋山ちえ子も「哀しい町」で同行同曲のことを書く。そして、NHKで増幅される。

 14代は昭和41年に、韓国民を震え上がらせていたKCIA(韓国情報局)の招きで渡韓し、

朴大統領に会い、ソウル大学で講演している。その時14代はどういう肩書で渡韓しているのか。


司馬の筆によると「ソウル、釜山、高麗の三大学の美術史関係の研究者にまねかれて渡韓した。」(同書59ぺージ)とある。

ここでは陶工家の肩書は出てこない。薩摩焼きの第一人者でもないのだ。

それはそのはずである。14代が東京から帰鹿したのは昭和35年以降のはずである。

昭和31年出生の長女の届けは東京都。

長男のそれは昭和三四年、横浜で届け出。次女の出生(昭和36年3月31日)の届げ出が初めて鹿児島でなされている。


この間の14代の経歴はどうなっていたのか。

昭和20年14代は旧制中学を卒業すると鹿児島医専(現鹿大医学部)に入学、中退。

その後、早稲田大学政経学部卒のあと、鹿児島選出の自民党代議士床次の秘書となっている。


その秘書稼業をやめ、帰鹿し窯場の苗代川に落ち着いても14代が作陶に精出している姿を地元の陶工家で見た者はない。

14代は政治向きのことで奔走している。


昭和46年、47年には大迫恵吉の名で鹿児島県PTA連合会会長となっている。

そういう下地を作ったあと14代は参議院選挙に打って出る準備もしている。

こういう経歴の持ち主が、昭和43年刊行の司馬の書では早くも名工扱いになっている。




ここでも司馬の筆が踊る

14代は13代に「少年のころから作陶の技術を教わった。」と。

これなど全くのインチキである。

14代はNHKの放映でもそのように喋っているのだが、13代は京都帝大法科を卒業したあと朝鮮総督府の役人をやり、

戦後は郷里で村会議員をしていたのだ。

 14代が名工などということが飛んでもないことは別の面からも証明出来る。

 鹿児島県では最大の評価を得ている鹿児島陶芸展がある。

昭和四八年から始まり、審査員は東京芸大の人間国宝の藤本能道らである。

この陶芸展には14代と同じ運命を辿ってきた鮫島佐太郎、荒木幹二郎の名は頻繁に出てくるが 、

14代の名は受賞者欄にも、賛助出品者欄にも一度も出てこない

 これが司馬の筆にかかると手品のように名工となる

「黒薩摩は民間需要に、白薩摩は島津家御用のみ、と規定されてきたが、ただ黒にも、
例外があり、御前黒という、肌質に、黄金の梨地が沈んだような玄妙な黒ものだけはかた
く御用とされ、その秘法も一子相伝の口伝とされてきた。


十二代は十三代に口伝をあたえることなしに死んだためにこの技法は絶えた」(同書48ぺージ)が、

14代は御前黒に適した釉薬を家伝書から推測し、見事、御前黒を再現したと、司馬は記す。


ここにもまた幾重にもウソがある。

13代が焼き物など出来なかったことと併せて、この記述は苗代川焼きの伝統、歴史を無視している。


明治になるまで苗代川の陶工家たちは島津藩の指示のもと、共同で雑器類を焼いていたのである。

従って宗家などというものがあったわけがない。御前黒などという呼称も、


鹿児島の人間が降る雨を島津雨などという類のものである。

また「御前黒」なる代物など他の窯でも焼けるし、焼いているものである。
 
 
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