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父母はじめ、お世話になってきた多く先輩方が亡くなられた。
日米開戦の2年前の昭和14年に生まれ、終戦時5歳、終戦76年の今年82歳になる私は、戦死者と会話したことのある最年少者でる。
終戦直前に医学校を卒業し、海軍の軍医となり、航空母艦と共に海に沈んで帰らぬ人となった若き凛々しい叔父の純白の軍服姿が目に焼き付いている。腰の銀色の短剣が欲しくなり、「僕に下さい。」と、おねだりしたら、「生きて帰れたら必ず君にくれよう。生きては帰れないと思っている。後はよろしく。子どもたちが創ってくれる、よい日本、よい世界を期待しつつ戦死するであろう。」と言われた。この言葉が耳に残っている。
「最年少者の責任。甲突川」で検索すると、「鹿児島市医報:人類永続・生物永続の地球的調和づくり。」、「鹿児島市医報:学校保健の健康から人類の健康と永続を。」などがヒットする。
「僕の責任。」で、「僕の責任、君の責任、みんなの責任、地球人の責任。」などがヒットした。
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